エネルギーの仕組みを理解する

 人間関係のお悩みに苦しんでいる人は、世の中に大変多いと思います。うぶすなにいらっしゃる方でも、大半のご相談は人間関係に絡んだものです。

 

 特に、特定の人物に対して、悪しき感情が湧き起こってしまい、その感情そのものに自分がやられてしまう、という状況は、よくあるパターンです。また、常にその人のことが頭の片隅にあり、考えたくもないのに四六時中考えてしまう、というループから抜け出せずにいる人も多いです。モヤモヤした感情と思考に圧倒され、エネルギーフィールドがどんどんネガティブに侵されていくと、気力や体力にまで影響が及びます。

 

 一度このトラップにはまってしまうと、そこから抜け出すのもなかなか難しくなります。というのも、囚われから離脱するためには、強い意思の力とエネルギーが必要だからです。ネガティブに侵されてエネルギーが下がっている状態から、ポジティブに切り替えるのにそれ相応のパワーがいることは、容易に想像がつくと思います。

 

 この状態にはまっている人にありがちなパターンは、「相手を責める」という道を選んでしまうことです。私が今こんなに苦しんでいるのは、あの人があの時私に対してあんなことをしたから、言ったから。あの人があんな振る舞いをしているせいで、私はこんなにつらい思いをしている。あの人さえいなければ、あの人さえ私の人生からいなくなってくれれば、私は楽になれるのに・・・

 

 この思考パターンから抜け出さない限りは、延々と相手を責め続け、そこから湧き起こる負の思考や感情に自分自身が苦しみ続けることになります。

 

 ではどうやったら抜け出せるのでしょうか。

 

 まずは、今自分がどっぷりとはまっている、「感情」や「思考」の次元から一度自分を解放してみることです。次元という言葉が適切かどうかがわからないのですが、ここで言っているのは、エネルギー的なフィールド、領域、レベルのことだと理解してください。感情や思考が存在しているエネルギー領域というものがあります。特定の感情や思考に常に囚われているということは、ここの領域に意識を強くフォーカスしてしまっている状態です。

 その状態から抜け出すためには、感情・思考次元より高い次元に波長を合わせなければいけません。意識をそちらにシフトしていくのです。するとどういうことが起こるかというと、まず感情や思考に圧倒されなくなります。次から次へと湧き起こってくるネガティブな感情や、壊れたレコードのように繰り返される頭のおしゃべりが静まります。より高い次元に上がれば上がるほど、そういったものが存在できなくなっていくからです。

 そうなると、今自分が置かれている状況を、冷静に見つめられるようになります。その人との関係性、その人はなぜ自分の人生に現れたのか、その人との繋がりの背景にあるものは何なのか、この体験から自分は何を学ぼうとしているのか。そうした”答え”のようなものは、感情や思考の次元には存在していません。起こっている出来事の裏側には、必ずエネルギー的な動きが関係しています。Energy Dynamics、エネルギー同士のぶつかり合い、引き合い、そして浄化。より次元の高い見地から物事を眺めてみると、そういったエネルギーの流れや動きが「見えて」くるため、起こっている状況をすんなり理解しやすくなります。理解が進めば、受け入れることも容易になっていきます。不必要に感情や思考に邪魔されることなく、魂レベルで受け入れられた時、ようやくその問題から解放されることができるのです。

 

 こうしたメカニズムを理解しているだけで、実行にも移しやすくなると思います。習うより慣れろ、で、一度エネルギーの仕組みを感覚で理解できるようになると、どのような出来事が起こっても、どのような人物が目の前に現れても、落ち着いて、少し離れた視点で見つめることができるようになっていきます。もちろん、全く感情や思考が動かないわけではありません。人間である以上、ネガティビティに圧倒されたり、落ち込んだりすることは当然あります。けれど、何かが起こった時に、感情・思考次元にずっと陥り続け、底なし沼からはい出せずにずっと苦しみ続けるようなことは確実に減っていきます。受け入れる許容もスピードも、どんどん広がっていきます。

 

 

 感情・思考次元に自分がはまってしまっているなと感じたら、一度波動を上げる、という行動をとりあえずとってみることをお勧めします。瞑想、入浴、運動、ゆっくりとした呼吸、自然に触れる・・こういったことをやってみて、意識をシフトさせていくのです。特に呼吸は、とても大きな力を持ちます。自分を高い波長にどんどん合わせていくつもりで、深い呼吸を繰り返してみてください。フラワーエッセンスも、こうした状態にもっていくお手伝いをしてくれます。そうしたエッセンスは、たくさんあります。

 

 

 起こっている出来事の背景にあるEnergy Dynamicsを理解し、受け入れることが、問題解決のカギとなります。そこの学びがいつまでも得られないままでいると、たとえその人がどこかにいなくなったとしても、しばらくしたらまた似たような人物が目の前に現れることでしょう。しかも今度は、前回の人を何倍もパワーアップしたような人物として。

 

 その人たちは、私たちを苦しめるために現れているわけではありません。逆に、特定のパターンから私たちが抜け出すお手伝いをするために、わざわざ目の前に姿を現してくれているのです。ゲームの1プレイヤーとして、そこにいます。そのゲームを終了させるかどうかを決めているのは、私たち自身です。何度も何度も目の前の敵をかわしては逃げ、また更に強い敵に出くわして闘い、精神的にも肉体的にも疲弊していく道を選ぶのか、もういい加減こんなゲームから抜け出そうと決心して、起こっている出来事の背景にある真の学びは何なのか、謙虚に向き合う道を選ぶのか。

 

 あるのはこの二つの選択肢のみです。そしてどちらを選ぶのかは、私たち次第です。

 

 

他人の感情に責任を持つ必要はない

 私が他人のエネルギーに必要以上に振り回されなくなったのは、「他人の発するネガティブエネルギーに対して、自分が責任を負う必要はない」ということを理解したことも大きいです。

 たとえその感情が自分に向けられたものであったとしても、人が発する愛に基づかないエネルギーは全て、発した人自身の問題に起因しています。私たちは、自分の内側に抱える問題には全責任を負いますが、他人の抱える問題には、本来責任を持つ必要がありません。それは、その人が全責任を負うべきものだからです。

 誰かが私を見て、その人の何かが刺激され、私に対して怒りをぶつけてきたとしても、その怒りの発生源は私にはありません。その人の中にあります。私はただ単に、その人の視界に入っただけの媒介に過ぎません。その人は、おそらく私以外の人に対しても、似たような状況が起こる度に、同じような感情を爆発させていることでしょう。その人が抱える、怒りの発生源となっている心のお荷物を捨てない限りは。そして、その人がいつそのお荷物を捨てるのかは、その人が決めることであって、他の誰もが無理強いすることはできないのです。

 

 本来内側が愛で満たされている人であれば、他者に対して攻撃的な言葉や感情をぶつけることはしません。そのようなことをするメリットは何一つないからです。人に何かを教える必要がある時でも、傷つけない表現や声のトーンを選ぶでしょう。人が、誰かを傷つけるような言動を取る背景には、必ずその人の心の内にある悩みや苦しみ、トラウマ、コンプレックス、恐れ、満たされない思いなどが関係しています。それを手放すことに抵抗があればあるほど、人は自分以外のものに原因を求めようとします。

 

 こうしたことを理解するようになって、ネガティブな感情が渦巻いている人と接触したとしても、その責任を自分が背負いこむことはしなくなりました。そしてそれと同時に、自分の中でネガティブな感情が湧き起こった際、それを他人のせいにもしなくなりました。

 

 

 

エネルギーの仕組み

 かつては、人がいっぱいいるような場所に行くのが苦手でした。大概そういう場所に行くと、そこにいる人たちの様々な念や感情などを感じ取ってしまい、自分もその影響を受けて体が重くなったり、頭が痛くなったり、吐き気がしてきたりしたからです。

 エネルギーの世界のことを学ぶようになって、エネルギーにより敏感に反応するようになったことは以前書きましたが、取り込んでしまったエネルギー(特にネガティブなもの)の浄化を自分でスムーズに行うことができていなかった時期は、あれこれとツールに頼り、クリアーになったなと感じるまで時間がかかっていました。

 今でもエネルギーの世界のことはわからないことばかりですし、自分のエネルギーフィールドのコントロールも完璧にこなせているわけではありませんが、以前と比べるとだいぶスムーズに自力で浄化ができるようになっていったのは、エネルギーの仕組みを頭ではなく体感として理解できるようになってからです。

 

 「怒り」「憎しみ」「嫉妬」「悲しみ」「恐怖」「罪悪感」といったネガティブなエネルギーというのは、波動(バイブレーション)が荒く、低い次元にあるものです。それに対して、「愛」「喜び」「希望」「慈愛」「ゆるし」といったポジティブなエネルギーは、波動が精妙で、より高い次元にあります。大前提として、高い波動のエネルギーは、低い波動のエネルギーを凌駕します。つまり、強いということです。闇は光が当たれば消えます。真っ暗な部屋で電気をつけた瞬間、暗闇はなくなります。それと同じように、例えば、「憎しみ」の感情に対して「愛」の感情をもってすれば、「憎しみ」は消えます。

 ・・・そんなことはない、「憎しみ」が勝つことだってある、と思うかもしれませんが、それは憎しみが「勝って」いるのではなく、人が憎しみを「選んで」いるだけです。本来、愛のエネルギーの方が遥かに強いので、憎しみ対して愛で対抗すれば、必ず愛が勝ちます。憎しみが消えていきます。本人が選びさえすれば、そいうことが自然と起こります。これは観念的なことではなく、エネルギーの世界で実際に起こっている、物理現象であり、サイエンスなのです。

 

 といったことを、頭では理解していたつもりでした。けれど、実際にそれをすんなり実行できるかというと、また別の問題でした。自分の中に、抵抗と葛藤があったからというのと、長年の習慣がなかなか消えなかったからです。頭ではわかっているのだけれど、どこかに疑念があったり、いざネガティブエネルギーに直面した際、それに対してつい自分の中にあるネガティビティが先に反応してしまうという、それまでの癖がなかなか治りませんでした。

 ただとにかく、ネガティビティに対してネガティビティで反応し、自らが産み出した負のエネルギーによって参ってしまう、というサイクルからは、何とか脱却したいと思っていました。もうこんな馬鹿馬鹿しいことをこの先の人生もずっと繰り返していくのはまっぴらごめん、もう心底うんざりでした。ですから、愚直に訓練を続けました。自分自身の浄化と、エネルギーワークの訓練です。何度も言いますが、私自身今でも完璧にできているわけではありませんし、まだまだ発展途上の段階です。しかし、やはり習うより慣れろで、エネルギーワークというのも、意識して行っていると、だいぶ感覚がつかめてきます。

 たとえば、怒りでプンプンしている人がいたとします。以前の私でしたら、そういう人の近くにいったり、その人が怒りを吐き出しながら話すのを耳にしただけで、その怒りのエネルギーを受けてしまい、苦しくなっていました。今は、もしそういう人が目の前にいたとしたら、私はまず自分のエネルギーフィールドの中に、相手の負のエネルギーを取り入れないように意識をします。よく、ブロックをする、といったやり方を耳にしますが、ブロックというとどうしても拒絶してしまうイメージがあり、否定するということにもなるので、私はよほどの強いネガティビティに直面した時以外は、その方法を使いません。自分のフィールドは守りますが、それは他の何物をも通さない、という性質のものではなく、自分にとって必要のないエネルギーがもし入ってきたとしても、そのまま”流れていく”イメージです。滝が流れるように、常に浄化が行われている感覚です。その時に、やはり最強なのが「愛」のエネルギーです。愛は全てを凌駕します。ネガティビティに足を引っ張られそうになった時こそ、自分の中を愛で満たすことが大事です。なかなか葛藤があって愛のエネルギーにフォーカスすることが難しい時もありますが、それでも諦めずに、訓練訓練と思ってやっています。うまくできなくても、自分を責めないようにしています。

 

 だいぶ感覚がつかめてくると、本当にポジティブはネガティブに勝るのだなということが、頭での理解だけではなく、確信に変わっていきます。こうなってきて大きいのが、「恐怖心」が薄れていくことと、自分の持つパワーに対して信頼感が増していくことです。どんなにネガティブな人がネガティブな感情や念を放っていたとしても、自分さえそれに同じ波長で反応しなければ、影響を受けることはないわけです。影響を受けることがないのであれば、そういった人を必要以上に警戒したり、恐れたりしなくてすみます(わざわざ仲良くする必要もありませんが)。何度も成功体験を積んでいくと、こうしたエネルギーワークは自分にもできるものなのだ、という確信が生まれ、そのことが自信となって更にワークがスムーズにいくようになります。これは、本来誰しもができることです。

 

 これが聖人(浄化が究極に進んだ人)レベルになると、強烈な愛のエネルギーを放つことで、ネガティブまみれの人が一気に浄化される、ということが起こるのでしょう。そうしたことも、奇跡と捉えられているかもしれませんが、エネルギーを理解するようになると、ああなるほどな、と思います。

 

取り込んだエネルギーのゆくえ

 よく、ネガティブエネルギーを「受けてしまった」とか、「取り込んでしまった」という表現を耳にします。実際、多かれ少なかれ、ネガティブなエネルギーを発している人はあちこちにいます。そういう人の近くに行ったり、話をしたり何らかの接触をした場合、確かにその人が発しているエネルギーを自分のエネルギーフィールドに取り込んでしまい、影響を受けることがあります。

 

 ただ、ここからが問題なのですが、ある瞬間にスッと入ってきたエネルギーをその後どう処理するかは、各々の対応にかかってきます。受けたものをサッと流し去るのか、受けて自分の中に取り入れたまま、放置するか。放置といっても、そのエネルギーに”反応”しているのは自分なので、本来受け身であるわけではありません。基本的に、取り込んだエネルギーに反応し続けているということは、自分の中にも似たようなエネルギーを発する要素があるということです。ある時に人からもらったエネルギーがいつまでも自分の中から消えないような気がするのは、実は、自分の内面にある要因が引き金となっていて、最終的にそこが発生源になっているだけだったりします。受けたのは一瞬のことで、そこにいつまでもしがみついているのは自分に原因があるということです。波長の合わないエネルギー同士が反応することはないので、自分の中に似たような要素がなければ、受けたエネルギーは自然と去っていきます。

 

 他人から受けたエネルギーの処理は、自分で何とかすることができます。サッと浄化するテクニックもあります。自分の中に似たような要因がなければ、影響を受けることもなく、そのまま浄化されて終わりです。いつまでもそのエネルギーが消えない場合、自分の何がこれに反応しているのかということに気づき手放すことで、その後いつまでも影響を受けることがなくなります。

 

 自分にとってあまり心地よくないエネルギーは、できればすぐに自分のフィールドから取り除きたいと思います。それなのに、いつまでも取りつかれたかのようにそのエネルギーの影響を受け続けているのは、そこに反応している自分の中の要因を手放していないからです。手放すことに抵抗があり、あえて目を向けないようにしていたりします。本来自分の身に起こるあらゆることは自分に責任があるのですが、人は己の内面を見たくない時には大概他人のせいにします。あの人のせいで私は今こんなに苦しいのだ、と思っていた方が楽な面もあるのです。しかしその状態は本来自由ではなく、ネガティブなエネルギー(感情)の影響をいつまでも受け続けることになるので、苦しいはずです。

 

 ネガティブエネルギーの影響を受けてしまったと感じたら、浄化の訓練だと思ってみてはいかがでしょうか。または、内側のお掃除のチャンスでもあります。その際のポイントは、決して他人のせいにせず、ベクトルをひたすら自分に向けることです。

 他人のエネルギーを変えることはできませんが、自分のエネルギーフィールドは全てその人の管轄ですから、いかようにも変えることができます。

 

 

エンパスとしての変遷

 エネルギーに敏感で繊細な気質の人を、”HSP"(Highly Sensitive Personの略)とか”エンパス”等と呼んでいます。こうした呼称ができたこと自体がそもそも割と最近のことで、それ以前には今ほど広く世間でも認知されていなかったというか、認識はされていたかもしれないけれどさほど注意を払われてこなかった、といえると思います。

 10人に1人とか、日本人は割合が多くて5人に1人はいるともいわれています。HSPやエンパスのセルフチェックなどをやってみると、例えば20個の質問のうち19個くらいがヒットし、様々な人が挙げている定義の大方の項目に当てはまるので、私自身もいわゆるHSP、エンパスなのだろうと思います。

 エンパス(とここでは呼びます)というのは持って生まれた気質なので、基本的には一生変わることがありません。しんどいからもうエンパスやーめた、と脱ぎ捨てることはできないのです。しかし本来エンパスであるということは、とても貴重なギフトであり、実りある人生を送ることを可能にするツールでもあります。

 私がエンパスであるという状況は生まれた時から今に至るまで全く変わっていませんし、むしろエネルギーを感じる力は昔より高まっていて、感覚もより敏感になっていると思います。かつては、自分の敏感気質がしんどくて、どちらかというと厄介なものだと思っていました。けれど、私が自分自身のエンパスという気質に対する認識を変え、ギフトの使い方、そして対処方法を学び、実践していくにつれて、エンパスという気質とうまく付き合えるようになっていきました。今では、エンパスであるということはなんてありがたいことなんだろうと感謝していますし、エンパスであることを自分なりに生かして、より豊かで喜びの多い日々を送れていると思います。本当にちょっとしたコツというか、意識と習慣次第で、エンパスをプラスにもマイナスにも利用することができます。

 私の個人的な、エンパスであることでどちらかというと苦しみ、きつい思いをしていた日々から、エンパスを受け入れ、上手に付き合えるようになるまでの変遷を、簡単に書いていきます。

 

〈エンパスであるということをそもそも明確に認識していなかった時代〉

 言葉をしゃべる以前から、そもそも言葉そのものを理解していなかったからこそかもしれませんが、周囲の大人たちがどういったことを話しているのか、それがどういうニュアンスを含み、裏にどんな感情が隠れているのか、ということを”感じて”いました。言葉を理解するようになってからも、話している大人が言葉とは裏腹に実際はそうは思っていないんだろうなとか、この人は本当はこういうことを望んでいるんだろうな、といった、人の本心や感情を感じ取っていました。そのことで、大人たちが時には本心とは異なることを話したり、時には嘘をついたりすることにショックを受け、また、人が内面に抱える感情のパワー(特にネガティブなもの)に圧倒されてしまうことがよくありました。

 また、幼い頃は特に、テレビや本などから放出されるエネルギーにとても敏感に反応していました。悲しいお話であればその悲しみにどっぷりと浸かり、まるで自分がそのお話の世界と一体化したような感覚になり、しばらく引きずってなかなかその感覚から抜け出せないことがありました。もちろん、楽しいアニメや本に触れた時は自分も楽しい気分になったりしていたのですが、どちらかというと、怒りや悲しみ、苦しみといったネガティブなエネルギーにより敏感に反応していたように思います。とにかく、一度圧倒されてしまうと、しばらく引きずるのがしんどかったです。この時期に目にしてしまった残酷なシーンや暴力的なシーンなどは、しばらくどころかその後何年もトラウマとなり、繰り返しそのシーンが思い出され、その影響からくる恐怖心から抜けだすことができませんでした。

 

〈エンパスであるということに気づき始めたものの、それを上手く使いこなせていなかった時代〉

 小学生になった辺りから、自分が何となく他の人に比べて、モノや場所や人のエネルギーに敏感に反応しているということに気づき始めました。他の人は感じていなかったり、気にしていないことを、自分は感じ取り、気にしていることがよくありました。相手が、自分と同じように感じていないことを知った時にはなんとなく寂しい気持ちになり、分かり合えないような、孤独感がありました。共鳴し合える人は周囲にいないと思い込んでいたので、その時の私は、本の世界に居場所を追い求めました。

 思春期になった頃からは特に、自分の感じていることを率直に語ることで、嘲笑されたり、引かれてしまうことが嫌で、本当に思っていることや、感じていることなどを、口に出すことをためらうようになっていきました。この状態は、だいぶ大人になるまで続きました。どうせ共感されないだろうから、話しても自分が悲しくなるだけだと思い、話すことを躊躇していました。

 相変わらず、人の感情や思いに敏感に反応し、その重みに圧倒されることは日常茶飯事でした。この頃は、周囲のエネルギーをそのままスポンジのように吸収しており、それを意識的に浄化する術を知らなかったので、しんどかったのも当たり前だと思います。また、幼少期からの癖で、ポジティブなエネルギーよりネガティブなエネルギーに容易に波長を合わせてしまい、ネガティブエネルギーにより敏感に反応するようになっていったため、自分のエネルギーフィールドがネガティブで充満してしまうことがよくありました。当然ですが大変キツかったです。おかしなことに、このしんどさを和らげてくれたのは、明るく楽しい本や音楽などではなく、人間の内面のダークな一面を表現した本や音楽などでした。こうしたものに触れていると、不思議と気持ちが和らぐのを感じたものです。

 

〈エネルギーの浄化という術を知り、実行するも、エンパスであることを真からは受け入れられていなかった時代〉

 大人になり、家庭を持った辺りから、エネルギーヒーリングの世界を知るようになりました。自分の中に取り込んでしまったネガティブエネルギーを浄化するツールや方法を学ぶようになり、だいぶ楽にはなっていきました。ただ、このことであるジレンマが生じました。それは、エネルギーの世界により意識的になることで、今まで以上に様々なエネルギーに対して敏感になってしまったことです。それまでも、集団や様々な人がいる場所がどちらかというと苦手というか、身構えてしまってはいたのですが、こうなってくると、必要以上に意識してしまうようになり、人込みに行ったり満員電車などに乗った日には、家に帰るまでに激しい頭痛に襲われたり、気分が悪くなったり、体が重くなったりしていました。プロテクションや浄化のフラワーエッセンスが手放せませんでしたし、飲み忘れたりした時には軽いパニックになっていました。

 誰かと話していて、その人の思い(特にネガティブなもの)を感じ取ったりした時も、そのエネルギーを吸収してしまい、具合が悪くなったりしていました。あまり良い気を放っていない場所に行った時も、それを感じた瞬間にそのことを意識してしまい、肩が重くなったり頭痛がしたり、何らかのマイナスの影響を受けてしまうことが多かったです。自分で自分のエネルギーフィールドをコントロールできると信じていなかったので(無力だと思っていた)、フラワーエッセンスやエネルギーヒーリングなどのツールに頼りっぱなしでした。

 この頃は、周囲の様々なエネルギーに翻弄され、きつい思いをすることが多く、エンパスであることをポジティブに活かす余裕はありませんでした。エンパスというのは、脆く、弱い存在だと思っていました。

 

〈エネルギーフィールドをコントロールしているのは自分自身であると気づき、ツールに頼らず周囲の様々なエネルギーの影響を必要以上に受けなくなってから〉

 

 それまでは、エネルギーというものに対する自分の姿勢は、どちらかというと受け身でした。やってくるものは避けられないし、受けてしまったものは何かの助けを借りて取り除くしかない。そのように考えていました。しかし、あれこれとツールを試したり、個人的に様々な経験と学びを深めていくにつれ、ある時から、結局は人のエネルギーフィールドを全面的にコントロールしているのは、その人自身ではないのだろうか、と思うようになりました。一見無力で周囲の影響を避けられないように感じていたとしても、そもそもそのように定義づけしているのはその人自身です。その状態を変えたければ、定義づけそのものを変えればいいわけです。「私は無力である」から、「私が望めば何でも可能である」と認識を変えるのです。そして、「どのようなエネルギーに対しても、私は自分の力で対処できる」と信じていれば、そのようになります。

 この事実に気づいてから、実際にツールに頼らずエネルギーをコントロールできるようになるまで、しばらく時間はかかりました。頭ではわかっているけれど、本当にできることを心から信じ切れていない、中途半端な時期がだいぶ続きました。今現在も、完璧にコントロールできているわけではありません。けれど、かつての無力だった自分と比べて、だいぶ主体的に自分のエネルギーを扱えるようになりました。

 

 こうなってから気づいた大きな事実があります。それは、外部からやってくるエネルギーをたとえ”受けた”としても、そこに自分が反応さえしなければ、それは私のエネルギーフィールドを素通りして去っていく、ということです。確かに、私たちの周囲には、多種多様なバイブレーションのエネルギーが充満しています。そんな世界に身を置いているのですから、その一つ一つに逐一反応をし、その都度自分のフィールドに取り込んでいたら、身が持ちません。かつての私は、逐一反応して疲れていました。今は、意識とイメージワークで、どのようなエネルギーがやってきたとしても、それをスッと浄化し、流すことができるようになりました。エネルギーに対処できるということは、他人の影響を必要以上に受けないということでもあります。どんなネガティブエネルギーを放出している人と接したとしても、そのエネルギーの影響を受けない術はあります。ヒーリンググッズなどのツールの助けを借りなくても、本来は私たち全てに、そうしたことができる力が備わっているのです。もちろん、そのことを心の底から信じることができるようになるまで、一時的にツールの力に頼っても良いと思います。私も、自分に備わっている力を信頼できるようになるまでは、そうしたものにたくさん助けられ、守ってもらいました。そのような過程も必要だったと思います。

 また、自分の意識が大きく変わっていったのは、長年続けてきた瞑想の効果がとても大きいと思います。これをやっていなかったら(今も毎日続けています)、今現在このような状態にはなっていなかっただろうと断言できます。

 

 エネルギーに意識的になり、それに振り回されるのではなく、上手に付き合えるようになっていけば、自分がエンパスであることもプラスに活かせるようになります。エンパスだからこそ得られる感動や知識、体験があります。また、紆余曲折を経たことでパワーアップした自分をいかして、何かを生みだすことも、他者に貢献することもできます。本来そこを目的としているエンパスも少なくないのではないかと思います。まずは、自分は「弱い」のではなく「強い」のだということに、認識を改めること。そこから全てはスタートします。

 

 

武将の悲哀

 戦国時代の書物を読んでいると、あの時代の武家社会に浸透していた、もののふとしての共通概念、パラダイムの影響力を強く感じます。いわゆる「義」を重んじ、主君に忠義を誓い、領土を守ることと拡張することに心血を注ぎ、武士としての名に恥じない生き方・死に方を全うする。

 特に、武士としてはその死にざまが無様であることは大変恥ずべきことであるという認識が強かったようで、切腹の仕方もいかに潔く豪傑であるか、ということが重要でした。

 ある記録に次のような記述があります。敵に追い詰められたある武将の奥方が脇差で自決した後、供をしていた乳母が同じ脇差で喉を突いて果てます。すると、そばに控えていた付き人の男が、「女がこのように潔く死んでいるのに、男としてこれに劣るわけにはいかない。この場を去って城に戻り、戦に参陣して活躍したとしても、周囲にみせる顔がない」といって、戦場に戻る選択をせず、そこで腹を十文字に掻き切り、はらわたを引き抜いて喉を突いて(この切腹の仕方は潔いものとされていた)果てました。

 このように、武士として逃げる姿勢をみせることは、当時は大変恥ずべき事でした。あの時代、自分が武士として潔く生き・死んだことが、いかに周囲や子孫に伝わるかということを、強く意識していたことが伝わってきます。「面目」「末代までの恥」「末代までの名誉」という文言は、この時代の文章に頻繁に出てきます。

 また戦国の世では、主君が亡くなるとその後を追って臣下が自殺をする「殉死」という風習がありました。影響力のあった武将が亡くなると、二桁にも上る殉死者が出ることもあったようです。更に、殉死の殉死(主君の後を追った臣下の臣下がその後を追う)などもありました。今では考えられない風習ですが、この時代は、臣下が主君に対して命を投げ出して忠義を示すことの意義が、非常に大きかったのです。

 

 

 武士というと、勇猛果敢で豪胆なイメージがありますが、戦いに明け暮れていた武士たちが、一方では芸能を愛し、洗練された和歌や文章を残していることを、様々な記録によって知ることができます。信長公が舞を好み、自らも時々舞っていたことは有名ですが、他にも茶の湯や相撲を楽しみ、武具や装束も細部までこだわりをもって作らせるなど、おしゃれのセンスでも当時の最先端を走っていたようです。一流の絵師に描かせた安土城の数々の襖絵は、息をのむほどの美しさであったと、訪れた人が記しています。多くの戦場で勇壮な立ち居振る舞いをする一方、繊細で優美なセンスの持ち主でもあったようです。

 伊達政宗公の父である輝宗(てるむね)公は、能を好みました。奥州という都から離れた場所にありながら、能楽に力を入れ、能楽師を雇ったり能楽堂を立てたりと、戦闘だけでなく芸術の振興にも努めていました。そんな輝宗公でしたから、跡取りである息子政宗に対する教育にも力を注ぎ、遠方から著名な僧侶を招いて、政宗の教育者にあてがいます。政宗は幼少の頃より頭脳明晰だっただけでなく、和歌もよく詠んだとのことで、11歳の時に一族の連歌の会に参加した時の歌「暮わかぬ月になる夜の道すか(が)ら」が残されています。当代一流の僧侶から教育を受けた成果もあってか、政宗は武芸のみならず文芸の才も花開きました。23歳の時、小田原攻で初めて秀吉の元に馳せ参じた際、遅参を責められてしばしの間幽閉を余儀なくされます。首も飛ぶかもしれないという危機的な状況の中、政宗は大胆にも千利休に茶の湯を習いたい、と申し出ます。奥州のどんな田舎者がやってくるのかと思っていた秀吉は、政宗の意外な文化人ぶりと豪胆さを面白く思ったのか、遅参を許し、その後も何かと目をかけるようになります。

 

 源平合戦の時代から戦国時代末期まで、瀬戸内海を中心に活躍した村上水軍ですが、こちらも豪傑な海賊集団のイメージからは想像できないような、繊細で哀愁漂う数々の歌を残しています。村上水軍の1グループである三島村上水軍は、伊予の国大三島に鎮座する大山祇(おおやまつみ)神社を信仰していました。合戦に赴く前には、よくここで先勝祈願を行い、その際風流なことに奉納連歌を行っていました。そこで詠まれた膨大な数の歌が、今でも神社に残されています。その一部をご紹介します。

 

旅衣末はるかなるやどりにて 

こぎぬる船にかねぞくれける

なか(が)き日もわずかになみの浦つたい

なきにし雁もこえかすむなり

 

とにかくに今際(いまわ)の身こそ悲しけれ

末は必ず仕えん御ほとけ

とうほども涙にちぎる秋の袖

したしかりつる中のふる塚

 

ますらをが弓づるほのかにかき鳴らし

はばさす玉こそ世にはあだなれ

武士(もののふ)は老いても心ゆるさじな

よむ歌にこそ名をものこさめ

 

あかつきの別れの鳥は鴫(しぎ)の声

田面(たも)の庵を出るますらを

ねざめてはそれかあらぬかほととぎす

なごりかなしきよこ雲のそら

 

のがれても世のほかならぬ山の中

幾度なれし戦いのにわ

数々の思いあまりて捨る身に

つらきむかしぞいまもくるしき

 

やみとなる心は月もなにならで

あさくおもうな親と子の中

別れてもただうちそうる心して

親のすがたをのこすうつし絵

 

ろうたきの匂いもふかき夕まぐれ

これをや恋のかたみともせん

物おもうこいのみちこそ哀れなり

こころの末をいつかしられん

 

手枕にむすびとめてよ夜半の夢

あさくなりぬるあかつきのそら

かたみとぞ思う扇に手をそえて

折々におう人の移り香

 

慕えども今朝の別れを留めかねて

散りゆく花のおしき雨かげ

夜な夜なの面影のみやしたうらん

なかなかきえぬ袖のうつり香

 

 

 これらは皆、戦いに赴く前の海軍武士たちが交互に詠んだ歌です。心の内が込められた歌の数々を読んでいると、故郷や家族、恋人の元を離れて戦地へと向かう武士たちの、胸が詰まる程の哀愁が伝わってきます。勇ましい武士とはいえ、人は人です。時流と環境に抗えず、大きな波に身を委ねざるを得なかったこの時代の武士たちは、表向きの勇猛さはさておいて、心の内では人間としての苦しみや悲しみ、葛藤を抱えていたのではないか。心の底から喜び勇んで戦場に向かう人など、本当はいなかったのではないだろうか。そんな風に感じます。

 

 そんな切ない武士の心情が強烈に伝わってくる、一つの遺書があります。信長の小姓として最期まで付き従った森蘭丸の兄、森長可(ながよし)の残した書状です。

 長可は、父可成(よしなり)の代から信長に仕え、可成が浅井・朝倉軍との戦いで討死した後、13歳で家督を継ぎます。勇猛果敢な武将として数々の戦で名を挙げ、信長が本能寺で死んだ後は、秀吉につくことを選びます。そして、本能寺の2年後に秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いにおいて討死、27歳で生涯を閉じることになります。その戦いの直前に書いた遺書が残っています。

 大切な壺や茶碗、刀の類を誰それに渡してください、といった内容と一緒に、「母は生活できるだけの堪忍分を秀吉様からもらい、京に入るように算段してください」と母親を気遣う文、そして、末の弟千丸のことを、「千丸に私の跡を継がせるのはいやでございます」と書いています。更に、娘のおこうについて、「京の町人のところに嫁がせるようお願いします。薬師のような人に嫁がせるのがいいと思います」と書いているのが胸を突きます。長可には、蘭丸の下に坊丸、力丸、千丸という3人の弟がいたのですが、蘭丸・坊丸・力丸の3人は、本能寺の変で同時に亡くなっています。千丸自身は信長の小姓になりたいと望んだとのことですが、幼少ゆえにまだ奉公に上がってはいなかったので、命拾いをしました。

 父親と3人の弟を戦で亡くし、自分自身もこの後の戦いで討死するかもしれない。そんな状況の中で、武士としての家の存続よりも、1人の人間として、生き残った末の弟の身の上を案じているのが印象的です。もしかしたら、夫と息子を相次いで亡くした長可の母親の胸の内を慮った可能性もあります。戦国の世ではよくあったこととはいえ、3人(そしてすぐに4人目も)の息子を次々に亡くした母親の気持ちはいかほどのものだったか、記録には残っていませんが、察するに余りあります。そして、娘には武家に嫁がせたくない。そんな素直な父親としての心情も、痛々しいほど伝わってきます。いくら武勲を挙げ、名誉を得たとしても、家族を亡くす痛みや、家族を残して散る身の虚しさを、自分以外の愛する人には味わわせたくない。そんな人としての率直な想いが、この遺書から滲み出ています。

 

 

 義を重んじ、名誉の死を望んだ武家社会の道徳概念と生死観。それは確かに強烈に浸透していたたに違いありませんが、必ずしも全員が、そのパラダイムに完全に飲み込まれていたわけではないように感じます。盲従しようにも仕切れなかった哀しき武士たちも、少なからずいたのではないか。芸術を愛し、繊細な心の内を歌という形で残し、家族の幸福を願ってできる限りの対処を望んだ、人間としての武士たち。世の無常さに直面しつつ、人としての心を失わずにいかにして自分を保っていたのか。あのような時代に生きることは、繊細な人であれば特に、タフな経験であっただろうと思います。

 

 

【参考文献】

 

「仙道軍記;岩磐軍記集」歴史図書社

「伊達史料集(上)」戦国史料叢書10 小林清治

「村上水軍全史」新人物往来社 森本繁

「戦国武将の手紙を読む」中公新書 小和田哲夫

 

怒りについてⅥ

 ”怒り”という感情は、一般的にはネガティブなものと捉えられていますし、実際心に抱く感情としては心地よいものではないかもしれません。

 しかし、これまでにみてきたように、怒りが私たちに教えてくれることはたくさんありますし、私たちの内側に本当は何があるのか、怒りという感情を通して気づくことができます。

 

 怒りが沸き出てきてつらい、「怒らない自分」になりたい、と望んだ際、一生懸命”怒り”そのものを消そうと努力したことがあったかもしれません。深呼吸をしてみたり、別のことを考えてみたり、楽しいことに目を向けてみたり、好きなことでリラックスしたり・・

 こうしたことはもちろん、冷静な自分になるために大きな助けとなってくれますが、これだけで終わってしまっていたとしたら、怒りの根本原因を解決したことにはなりません。エッセンスにも、怒りを浄化してくれるものもあります。こうしたエッセンスを飲んでいると、確かに”怒り”がおさまり、一時楽になります。しかしやはり、本当はこれでおしまいではないのです。エッセンスを飲んで感情が一時静まったら、その時こそが内面に目を向けるチャンスです。落ち着いて、冷静に、自分の内側に何があるのか、何が怒りを引き起こしているのか、問いかけてみてください。

 

 怒りの大元が解消されないままであれば、一時的に怒りから解放されたように感じても、またきっかけがあれば必ず同じ反応が起こります。場所を変え人を変え、それはやってきます。そのきっかけは、私たちを痛めつけるために起こっているのではありません。気づかせるために起こっています。愛です。あなたを縛っているお荷物を手放しなさい、もうその時期ですよ、と教えてくれているのです。そして誰でも、その人の意思次第で、手放して自由になることができます。本当は、ツールさえも必要ではありません。いつだって、誰だってできることです。

 

 手放しのプロセスを選ばないこともできます。この世の中では、その選択をしている人の方が多いかもしれません。けれど、必要のない怒りを抱えて生きることは、心に重荷を背負って生きることであり、精神的に苦しいだけでなく、肉体にさえも良くない影響を及ぼします。感情もエネルギーです。周波数の低いネガティブな感情のエネルギーは、私たちのエネルギーフィールドを歪め、そこから様々な現象となって肉体に現れます。物理的な出来事として起こることもあります。私たちの身に起こっている現実は、私たち自身が創り出しているものです。

 

 人間なのですから、様々な感情が湧き起こることは当たり前のことです。恥ずかしいことでも何でもありません。肉体をまとっている以上は、感情から完全に解放されることはないでしょう。しかし、感情に支配される状態ではなく、感情をコントロールする状態になることはできます。手なずけるようなイメージです。

 ネガティブな感情を抱くことは「悪いこと」という認識を持っている人が多いかもしれません。実際は、ネガティブな感情ほど、私たちの心の内をわかりやすく映し出してくれるものですし、私たちが自由に楽に生きるための、道しるべとなってくれるものです。

 

 

怒りについてⅤ

 ”怒り”はネガティブな感情という認識が強いかもしれませんが、時には必要な怒りもあると思います。

 

 過去に、息子が学校で友達同士のトラブルに巻き込まれた時の話です。その問題の対応に当たった先生が、当事者の子供達に脅すようなことを言ったり、何時間も密室で怒鳴りながら尋問したりして、精神的に追い詰められる子が出てくる事態となりました。

 そのことを子供から聞いた私たち保護者は、これは問題だからきちんと抗議をしようという話になりました。そして、学校に掛け合って教頭・校長も含めた話し合いの場を設けてもらい、きちんと抗議をしました。教育者という立場である先生が、子供を傷つけるようなことをするのはおかしいのではないですか、対応の仕方が間違っているのではないですかと、親としての憤りをはっきりと伝えました。

 

 不正を摘発したり、犯罪行為を咎めたり、してはいけないことをした子供を親が叱ったり、といった場面で発する怒りは、相手に間違いに気づかせるパワーを含むと思います。

 

 

 ちなみに学校に抗議した際、個人的な感情だけで先生や学校を恨むことだけはしないようにしようと思いました。そのようなことをすれば、前回書いたリベンジループにはまることになるからです。怒りは放っておくといくらでも膨張するものなので、どこかで冷静にブレーキをかける意識を持たなければ、自分で自分をコントロールできなくなることさえあります。抗議をすることで、先生や学校に問題として認識してもらい、今後同じように傷つく子供が出ないようにしてもらうことが第一目的でした。なので、きちんとこちらの意見を伝え、それなりの対応をしてもらったら、あとはそれ以上責めたりせず、先生の心の状態も含めて全て良い方向に進むことだけに意識をフォーカスするようにしました(なかなか葛藤はありましたが)。

 

 物事が解決したら、もう終わったこととして執着しないことが、こういった体験をした際のポイントかと思います。怒りを必要以上に引きずってメリットとなることはありません。私自身も完璧にできているわけではありませんが、やはり根底に”愛”があること、これが基盤になっていれば、誤った方向にいくことはないのかなと思います。

 

 

怒りについてⅣ

 怒りのさらにもう一つのパターンを挙げます。

 

それは、

 

「自分が愛されていない」「自分が大切にされていない」

 

と感じる時に発する怒りです。

 

 街中でよく、他人とすれ違った際少し肩が当たっただけで激怒している人や、店員さんや係員さんの対応やちょっとしたミスに対して怒りを露わにしている人を見かけます。

 誰かに馬鹿にされたと感じた時、自分の意見が通らなかった時、話をちゃんと聞いてもらえなかった時、失礼な態度をとられた時、自分にとって大切な存在(こと、物、人、ペット、思想、アイドル、趣味、ect.)を軽んじられた時、無視された時・・・

 

 こうした時に湧き出てくる怒りは、自分という存在が大切に扱われていない、つまり愛されていないと感じた時の反応です。

 これまでの人生において、特に”愛されている”、”大切にされている”と感じることが少なかった人は特に、過敏に反応することが多いように思います。

 

 アンジェリックエッセンスに、「Being Completely Loved」というエッセンスがあります。これは、自分の内側を愛で満たしてくれるエネルギーです。

 愛を外へ求めるのではなく、まず自分の中を愛でいっぱいにする。自分で自分を大切にする。自分は本当はとても愛されている存在なのだということに気づく。

 

 自分の中が愛で満たされると、他者の反応は今までのようには気にならなくなっていきます。それは、愛を外側に求める必要性がなくなるのと、心が満たされたために思考にゆとりが生まれ、他者をそれまでとは違った見方でみることができるようになるからです。

 そして、過去の出来事も赦せるようになっていきます。あの時あの人が私に対してあんなにひどいことをしたのは、あの人の心に余裕がなかったからなのだな。あの人も苦しかったのだな。あの時人を傷つけるような言葉を発したのは、あの人自身が何かを恐れていたからなのだな。私を拒絶したのは、あの人自身が自分を受け入れられていなかったからなのだな。

 そういった、他者の痛みも愛の目線でみることができるようになります。

 

 

 トラウマの解消には、かならず「赦し」のプロセスが必要になってきます。そのためには、まずは自分の中の怒りに気づくこと(存在を否定しない)。そして、その怒りが何に反応して湧き起こっているのかを冷静に見つめること。そしてそこに愛を当て、手放す。

 

 恨みや怒りを抱えて生きていくのは、とてもしんどいことです。日常の些細な出来事や、目にすること耳にすることにいちいち怒りで反応するのも、しんどいです。過去にいじめられた経験を持つ人が、「この恨みは一生忘れない」と言っているのを時々耳にします。そんな心の状態が本当の幸せではないことに、本人もどこかでは気づいていると思うのですが、その人の中の何かが抵抗しているのだと思います。

「自分が成功することで、相手を見返してやる」

 と言っていたりもします。しかしたとえその人が定義する”成功”を手に入れたとしたって、心の中に恨みと怒りを抱えて生きていれば、決して真の平穏が訪れることはありません。

 

 長年抱いてきた恨みほど、手放す、つまり”赦す”ことを決意するのに抵抗をおぼえるものです。大概、決意するまでにかなりの葛藤があります。実際の赦しのプロセスというのは、”決意”をした時点で半分以上は終わっているようなものです。なぜなら本気で決意したのであれば、あとは自然の流れでプロセスが進んでいくからです。多くの人は、この決意をするまでに至らないまま、足踏み状態をしています。そして繰り返し、きっかけとなる出来事が起こる度に怒りを放出し、それを他人のせいにすることで、本当の原因は自分の中にあることに気づこうとしません。そもそも自分の中の恨みや怒りを冷静に見ようとさえしないまま、一生を終える人もたくさんいます。

 

「やられたらやり返す」

 

この古いパラダイムから、私たちはそろそろ脱却する時期に来ているのではないでしょうか。このパラダイムを壊し、傷つけ傷つけられるパターンから抜け出す人が増えれば、地球上のあらゆる現象が大きく変わっていくことでしょう。そしてそのためには、私たち一人一人が、強く意思を持ち、変わる決断をし、一個一個アクションを起こしていくしか道はないと思っています。

 

 

怒りについてⅢ

 怒りが生じる時の、もう一つのパターンを挙げます。それは、

 

「自分の中にある、”こうあるべき”という信念と、相反する言動をとっている人を目にしたとき」

 

と、

 

「自分の中にある、”もう手放した方が良い”習性やくせ、価値観を体現している人を目にしたとき」

 

です。

 

 私たちは、自分の内面を映し出して見せてくれる人を引き寄せることがあります。そういった場合、知らず知らずのうちに、相手に自分自身の姿や価値観を投影させて見てしまいます。そして、その反応として様々な感情が生じるのです。

 

 たとえば、ある人が、「人前に出る時は、きちんとした服装でなければいけない」という信念を持っていたとします。そうした時、その人の目の前に、「人前に出ているのに、とてもだらしない恰好をしている人」が現れたとします。すると、自分が強く信じている”こうあるべき”ルールに従っていないその人に対して、憤りをおぼえます。「どうしてきちんとした格好をしないのだろう」「もっとちゃんとした服を着るべきなのに」といった考えが渦巻き、それに伴った怒りやイライラといったネガティブな感情が生じます。

 ちなみにこの時、たとえ同じ信念を抱いていたとしても、「人は人、自分は自分」という許容がきちんとできていれば、さほどネガティブな感情は生まれません。信念自体に自分がどれだけ縛られているか、そして自分とは異なる考えや価値観をどれだけ受け入れられているか、相手の事情を察して慈愛の心で受け止めるゆとりがあるかどうか、という心の状態が関わってきます。

 

 また、ある人が、自分の遅刻癖を何とかしたいと考えているとします。自分の時間にルーズなところが嫌で、直したいと思っています。そうした時、自分と似ている、時間にルーズで遅刻ばかりしている人を目にしたとします。まるで自分の嫌な部分を鏡で映したようなその人の行動をみて、自分をみているかのように感じ、なんとなく嫌な気持ちになったり、その人に対して怒りの感情が芽生えることもあります。

 

 このようにわかりやすい事例もありますが、その人自身もあまり気づいていない、自分の深い部分にある”質”や観念、パターンを他者が映し出していることもあります。そうした場合、その人をみるとなぜこんなにイライラしてしまうのか、一見わからないことが多いです。負の感情から解放されたければ、自分の内面を深く見つめる必要があるのですが、なかなかそうしたところまで踏み込まないまま過ごしている人が大半かと思います。誰だって、自分の内側に深く入っていくことは怖いのです。また、とても大変な作業であることもどこかでわかっているので、なかなかお掃除の第一歩に踏み込めずに躊躇している人も多いかと思います。

 

 

 このパターンの怒りは、「寛容」「慈愛」「手放し」が鍵となります。どちらかというと、「手放し」に集中した方が良いです。そもそも、心のお掃除がある程度進まない限り、人間が「寛容」「慈愛」の心を持つことは難しいです。だから、仏教の教えでは繰り返し、執着を手放すことを教えているのです。

 自分の中にある、不必要な思い込みや価値観、パターンをどんどん手放していくことで、他者に対しても寛容になり、慈愛の心を持つことができるようになっていきます。子供じみた言動をとっている人がいたとしても、かつての自分の姿だと思えば、責めるのではなく、慈愛の気持ちでみることができます。何かに躓いてもがいている人がいたとしても、ああ今この人は何かを学ぼうとしているのだな、と寛容に見守ることができます。

 

 

怒りについてⅡ

 自分の本当の気持ちや思いを封印し、本来望んでいる生き方ではなく、周囲の期待や社会的通念などに合わせた生き方を選んでいる場合。一見周りと調和して、うまくまわっているように見えるかもしれません。けれど、自分自身に嘘をついているので、内面には鬱屈した感情が蓄積されていきます。

 そうしたものが溜まっている場合、ふとしたことがきっかけで、その感情が「怒り」となって表に出てくることがあります。よくあるきっかけをいくつか挙げてみます。

 

1.望み通りの人生を生き、喜びと幸せに満ちて輝いている人をみた時

 

・・・本当は自分もそのように生きたいのに、そのような生き方を選べていない現状が、羨望や嫉妬、ひいては怒りの感情を生むことがあります。「どうしてあの人だけが」とか、「私ばっかりなぜこのように我慢しなければいけないのか」という不満があったりします。実際のところ、本当はいつでも誰でも望み通りの人生を生き生きと送ることが可能なのですが、自分にはできない、無理だ、と思い込んでしまっているために、”できて”いる人を見るとイライラしてしまうのです。怒りの矛先は、相手だけでなく自分自身にも向けられています。

 

2.期待を裏切られた時

 

・・・色々我慢をしているので、思うようにことが進まなかったり、他人の選択が自分の期待とは違うものだったりした場合、受け入れることが難しくなります。根底には、「自分の犠牲に見合った結果を受け取るのは当然」「自分はこんなに我慢しているのだから、相手も我慢をするべき」といった思いがあります。心の声に従って生きていれば、結果にはあまり執着しないものです。

 

3.感謝・評価をされない時

 

・・・自分が我慢をし、犠牲を払っている分、どこかで他人からの感謝や評価を期待してしまいます。そこには、「こんなに頑張っている自分、我慢している自分に気づいてもらいたい」という思いがあります。気づいてもらえていない時や、反応がない時、どうして私のこの苦労・苦しみをわ

ってくれないのか、という怒りが沸いてきます。

 

4.チャンスを取り逃がしている時

 

・・・そうはいっても、宇宙はいつだって、「あなたの本来の生き方はこっちですよ」というサインを送ってきます。そこに気づいていはいるのだけれど気づかないふりをしたり、無視したり、「今はできない」と先延ばしにしてしまうと、そういった選択をしている自分に怒りが沸いてくることがあります。本質とは違う生き方をしている自分には、常にどこかで違和感を感じるものです。自分のことが好きになれない、肯定することができないという場合、自分という存在を受け入れられないのではなく、その生き方を受け入れることができていなかったりします。

 

 

 自分の本当の思いに素直に従って生きていれば、他人の状況や、他人からの反応が気にならなくなります。なぜなら、自分と神(Source)との関係性だけが大事だという感覚が強くなるからです。他の人の生き方や自分がどう思われているかなど、本来気にする必要がないのです。もちろん、振り回されない程度に参考にすることは大事かと思いますし、全く周囲に合わせず生きていくことは現実的ではありません。わがままになり過ぎないように注意を払う必要はあると思います。けれど、必要以上に周囲を気にして生きていると、自分の声が聴きづらくなります。答えは外にあるのではなく、内側にあります。内側に意識を向け、内なる声を聴いていれば、間違った方向に導かれることはありません。ここに信頼を置くことができていれば、周りで起こっている出来事や、他人の言動にいちいち感情が大きく揺れ動くことも減っていきます。

 

 

怒りについてⅠ

 敏感で繊細なタイプの人というのは、人の思いや場の雰囲気を感じやすく、尚且つ「相手を喜ばせたい」という奉仕の精神を持ち合わせていることが多いです。ですから、様々な場面で、相手の希望や期待を敏感に察知し、自分の本当の思いを押し殺してでも、相手が喜ぶ道を選びがちです。

 物心がつく頃から自然とそのような習慣が身についている場合、あまりにもその生き方がなじみ過ぎて、選択の判断基準が「自分の思い」ではなく、「家族の希望」や「一般常識」「風習」「伝統」はたまた「自分に強い影響力を持つ人の生き方」等に自然となってしまっているかもしれません。自分がその状態であることに気づいていないこともありますし、気づいていたとしても、今更根本的な生き方を変えられないと思っていたり、これが自分なんだ、とか仕方ない、とあきらめてしまっていることも多いです。いつの間にか、本当の自分の思いに従って突き進むより、相手や周囲に合わせていくことに安心感を抱くようになり、それが本来の自然な生き方であると、自分で自分に言い聞かせるようになっていったりします。

 

 こうした生き方を長らく続けていくと、一見周囲と軋轢もなく平和に暮らしているように見えるかもしれませんが、本当の自分の思いは成し遂げられていないままなので、心のどこかに違和感を覚えるようになります。

 

 そしてその違和感が、「怒り」という形で、表面化してくることがあります。 

 

光と闇Ⅹ

 "Out of sight, out of mind." (去る者は日日に疎し)

 

 英語にも日本語にも、同じような意味のことわざがあります。英語バージョンだと、直訳すれば「視界に入らなくなれば、思考からも去る」といった感じでしょうか。

 

 世の中には光もあれば闇もあります。光に目を向けている人もいれば、闇に引っ張られている人もいます。そして私たちは、そのどちらにも惹きつけられることがあります。

 

 苦手だなと思う人がいた場合。苦手だと思えば思う程、その人のことが気になり、気にしていたくないのにいつも気にしてしまう、考えたくないのに常にその人の顔がちらつく、ということはよくあります。それは知らず知らずのうちに、その人のことに意識をフォーカスしてしまっているからです。「あの人のことなんて考えたくもない」と強く思うことでむしろ、強い念が発生してしまっています。

 人に限らず、苦手な場所やシチュエーション、エネルギーに対しても、拒絶する気持ちを強く持つと、逆にそこに強くフォーカスしてしまうことになります。

 

 良くも悪くも、自分がそれにどのように「反応」しているかどうかが、その人のエネルギーフィールドに影響を与えます。闇に力を与えたくなかったら、そして自分が闇に支配されたくなかったら、そこに意識を向け過ぎないことです。拒絶するより受け入れた方が、影響を受けずに済みます。”受け入れる=愛”のパワーの方が本来強いのです。

 

 意識のコントロールには、ある程度の訓練も必要かと思います。雑念や頭のおしゃべりばかりを聞いてしまっている状態だと、闇に引っ張られやすいです。そのような状態であれば、まずは頭と心を鎮めることから始めることをお勧めします。

 気をそらす、自分が何にフォーカスするかを決める、望まないシチュエーションにエネルギーを与えない・・こうしたことは、常に思考や想念で一杯な状態だと、集中して行うのが難しいです。まず自分をニュートラルな状態にしてからの方が、やりやすいです。

 

 

 

 「闇」、この世のネガティビティは、恐怖心をツールとして世界のエネルギーを操ろうとしていますが、「闇」の存在そのものが、実は恐怖心でできているということを、私は確信しています。

 有名人でも身近な人でもどちらでもいいので、自分が知っている、わかりやすく「闇」に引っ張られている人を一人挙げてみてください。そしてその人の一挙手一投足を観察してみてください。その人はなぜそのような行動をとっているのでしょうか。なぜ嘘ばかりついているのでしょうか。なぜ自分を強く見せようとしているのでしょうか。それはその人自身が恐怖心に支配されているからに他なりません。何かを失うことを極端に恐れているはずです。時々見せる子供じみた言動も、自分の見せかけの強さが傷つけられたと感じた時の、感情的な反応です。

 

 恐怖心に支配されている人を、そもそも必要以上に怖がらなくてもいいように思います。どれだけ力を持っているかのように見えても、所詮それは張りぼての虚像です。一部の人を騙すことで持ち得ている、脆い、見せかけの力です。そのような虚像は、何かのバランスが崩れた時、あっという間に崩壊してしまうことでしょう。

 

 

光と闇Ⅸ

 「光と闇」シリーズのブログの一番最初に、昔のアニメの話を書きました。昔のアニメや漫画にはよく、ダークヒーローが登場していました。主人公に敵対する、悪の権化のようなキャラクターです。嫉妬深く狡猾で、意地が悪く破壊的。常に主人公を陥れようと画策しています。

 

 なぜかダークヒーローには、必ずと言っていいほど取り巻きがいました。悪魔の子分達です。たいてい、子分達も意地悪で、卑屈です。それでいて、常に親分であるダークヒーローの顔色を窺っているような、小心者として描かれることが多かったように思います。

 

 人が人に惹かれる(異性の関係に関わらず)時。それは必ずしも、愛に基づいて惹かれているとは限りません。人は時として、相手の持つ”傷”に惹かれることがあるのです。光にはもちろんとてつもないパワーがありますが、闇にもパワーがあります。闇側も常に、パワーを拡大させそうとしているのです。

 闇のパワーの吸引力を侮っていると、痛い目にあいます。特に、自分の心の状態によって、はねつける力が弱まっていることがあります。判断力が鈍っている時は、相手の嘘やまやかしに簡単にひっかかりがちです。それはそれで経験であり学びなので、決して悪いことではないのですが、パターンやメカニズムを知っておくと、何度も同じ間違いを繰り返すことはなくなるかと思います。

 

 相手の傷に惹かれている時というのは、たいてい、惹かれる側も似たような傷を持っています。同じ学びを同時にさせられる目的で、引き寄せられる場合もあります。または、共依存の関係にありがちですが、自分の満たされない思いを満足させるため、敢えて被害者のような立場を選んでいることもあります(この場合は無意識下で行っていることが多い)。それから、ダークヒーローに付き従う子分達のように、自分には力がないと信じている人が、一見力がありそうな人につくことで、自分自身が大きくなったような気がして満足感を覚えていることもあります。

 闇の力が基盤となっている集団というのは、案外秩序を重んじます。細かいルールやヒエラルキーを構築することで、組織としての盤石性を維持しようとしているのです。誰が「ボス」かということにこだわるのは、権力に依存しているためです。また、恐怖心を抱かせるような「罰」をつくって、集団から逃れにくくしたりします。そして、一人一人には力がないと信じ込ませます。愛ではなく、恐怖で支配しているのです。

 

 集団に限らず個人と個人の関係でも、このようないびつなパワーバランスが存在していることもあります。自分がそのような関係性に陥っていると感じる時は、一度離れて冷静になり、そこで何が起こっているのか、深く洞察してみるといいです。

 

 自分のことだけではなく、相手のことを心から思っている人は、

 

☆自分のことを必要以上に大きく見せたりしません

☆相手が無力であるかのようなことを言ったりしませんし、そのように思わせるようなこともしません。

☆相手の恐れを助長するのではなく、「怖がらなくても大丈夫」だという言葉がけをします

☆自分の立場が上であるという態度をとりません

☆相手を利用して自分が得をするような姑息な手段をとりません

☆物理的な恩恵を相手から期待しません

☆自分の傷を、相手を傷つけることによって埋めようとしません

☆自分の傷を、相手に癒してもらおうと期待しません

☆相手が自分と違う意見だとしても、それを尊重します

☆相手の人生の選択を、尊重します

 

 これらのことはそのまま、自分が相手にしていないかどうかを確かめる指標にもなります。人と人との関係性は、一方通行ということは絶対にありえません。私たちはつい、相手のせいにしてしまいがちですが、その人に惹きつけられたということは、自分の中にも何かしらの理由、要素があったということです。愛に基づいた関係性はポジティブに拡大しますが、傷に基づいた関係性は、長続きしなかったり、ある時突然空中分解してしまったり、どちらかが病む結果になったりと、その人たちが本来の姿で生き生きと輝く妨げとなります。

 

「魅力」にも様々な種類があるということです。

 

光と闇Ⅷ

 地球には、エネルギーが特別に高い場所や、反対にとても低い場所があります。特別ではなくても、そこそこ高い場所や、そこそこ低い場所もあります。太古の昔から地殻活動が活発な地域(火山があるような場所など)は、押しなべてエネルギーが高い傾向があるようです。それは、元々その場所がエネルギーが高いから地殻活動も活発になるのか、もしくは地殻活動が何度も起こったことによってエネルギーが高まったのか、どちらかはよくわかりません。

 また、エネルギーにも様々な種類があり、その場所に行くと元気がもらえるようなパワースポットもあれば、その場所の波動を浴びることで一気に浄化されてスッキリする、といった場所もあります。反対に、低い波動の場所に行くと、ぞわぞわしたりなんだか暗い気持ちになったり、体調が悪くなったりもします。

 元来その土地が持つエネルギーの影響もありますが、人間の活動によって、その場所の波動が上がったり下がったりすることも当然あります。人間がポジティブな意識でポジティブな行いをしていけば、自然とその場所の波動も上がり、何でもなかったような場所がパワースポットになったりします。また逆に、凄惨な殺人事件など、とてもネガティブな出来事が起こったような場所は、その行いによってポータルが開いてしまい、悪の存在が活発に動きまわるようになったりします。その時関わった人のネガティブな「念」や意識がこびりついていることもあります。

 

 当然、ネガティブな波長を発しているような場所はできるだけ避けた方が良いですし、できれば高い波動を発している場所に身を置きたいものです。けれど、人間生活していれば、日々様々な場所を訪れますし、中には避けて通れない場所もあるかと思います。望むと望まざるとにかかわらず、「あ、ここは明らかに良くない場所だな」といった場所に足を踏み入れてしまった場合。対処法としては、大きく分けて「防御」と「浄化」が鍵になるかと思います。

 

 まず「防御」ですが、そういった場所に身を置いたとしても、守ってもらえるよう、神仏などにお願いをすることです。見えない世界のことは、見えない世界にいる存在の管轄領域であり、得意分野です。私達は常に、そうした存在から何かしらのご加護を受けていますが、ピンチにいる時や、特別守りの力を高めてもらいたい時は、明確にお願いをすることが大事です。高次の世界にいる存在というのは、とても謙虚で、私達の自由意思の邪魔を決してしてきません。こちらが窮地にいるような時でも、依頼されなければ手助けができないのです。ですから、守ってもらいたい時や助けてもらいたい時は、遠慮せずにはっきりと、「助けてください!」と意思表示をした方がいいです。私たちを助けたくて手ぐすね引いて待っている存在達が、喜んで助けに来てくれます。

 それから、ネガティブな場所にいる時でも、ネガティブに波長を合わせないことです。これはなかなか難しいかもしれませんが、意識するだけでだいぶ引っ張られにくくなります。どんなに雰囲気が悪くて気がすさむような場所にいても、自分が光でいれば、ネガティブな影響を受けるのが少なくて済みます。過去にも書きましたが、闇よりも光の方が強いのです。愛と希望、慈愛、いたわり、そういった意識を保ってその場をやり過ごしてください。光をイメージするのも効果があります。自分を光で包み、その場所全体も光で包みます。

 お守りやお札、天然石、魔除けの力が宿ったグッズに頼るのも一つの手かと思います。そういったものを何か常に身に着けておくと安心です。もちろん、フラワーエッセンスにもプロテクション系のものは色々ありますから、そういったものを毎日とっていると、大きな助けとなってくれます。

 

 次に「浄化」ですが、これは本当に様々な方法がありますし、個人的に合う合わないもあるかもしれませんので、参考程度に読んでください。低い波動の影響を受けてしまった時に、一般的に効果があると思われるやり方を挙げておきます。

 

☆海塩を入れたお湯につかる

・・・浄化系のフラワーエッセンスを入れると尚効果的です。もちろん、浄化系のフラワーエッセンスを飲むのもおすすめです。

 

☆深く何度も息を吐く

・・・吐く時に悪いものが口から出ていくイメージで。この時に、やはり高次の存在に浄化を手伝ってくれるようにお願いすると良いです。悪いものに対して「出ていけ!」と強く命令すると更に効果的です。

 

☆神社にお参りをする

・・・できればパワーの強い神社が望ましいです。霊験あらたかなお寺でも良いです。もし、何か悪いものが憑いてしまったなと感じ、お参り程度では落ちないようでしたら、ご祈祷を頼むのも一つの方法です。

 

☆セージを焚く

・・・セージの浄化パワーは本当に強いので、家に常備しておくことをお勧めします。これさえあれば怖くない、という程頼りになります。ネットで簡単に購入できます。

 

☆笑う

・・・ふざけているようですが、人は笑うことで波動が一気に高まります。波動が高まると低い波動の影響を受けにくくなるので、できればたくさん笑っていた方がいいです。ニコニコ笑うだけでなく、時には声を出して心から笑ってみましょう。お笑いの動画など、今は様々なコンテンツがあるので便利です。笑うことで病気が治った話などは、世界各地にあります。

 

 

 ほんの一例を挙げてみました。こうした物理的な方法で、地球上のネガティブなエネルギーの影響をできるだけ少なくするやり方もありますが、やはり一番大切なのは、常日頃からポジティブな意識で生活していることだと思います。確かに神社やパワースポットといった高波動の場所に行けば、その時に一気に波動が上がります。けれど、家に帰って普段の生活に戻った際、後ろ向きでうじうじした考えで過ごしたり、物事のネガティブな面ばかりを見て、不平不満や文句がひっきりなしに浮かんでくるような思考パターンでいれば、せっかく高まった波動もまた一気に下がってしまいます。

 海塩やフラワーエッセンス、天然石、護符などの高波動のグッズを使うのも、私は結局は対処療法だと思っています。体調を崩したり病気になった際、病院へ行ってお薬を飲むなどして何らかの治療をします。よくなった後、もし不摂生を続けたり、病気を引き起こしたネガティブな思考パターンでいれば、またいずれ体調を崩したり病気に罹ったりするでしょう。薬や治療というのは、対処療法であって、根本的に人を癒す力はまた別にあると思います。

 たとえばフラワーエッセンスも、飲んだその時に何かしらの変化が起きます。たいていは、「気づき」があります。そもそもエッセンスがとても波動が高いものなので、飲んでいるだけで波動が上がり、ポジティブになっていきます。環境が変わることも多々あります。けれど、ただ飲んでいるだけで具体的に行動を起こさなかったり、自分を見つめなおすことを怠っていると、エッセンス本来の効果は半分程度で止まってしまうように思います。飲み終わった時に、また元の状態に戻ったりします。エッセンスはその人が本来の輝きを放ち、生き生きとポジティブに生きていくお手伝いをするものであって、それにすがるだけでは足りないのです。ツールはツールでしかありません。その人の人生を突き動かしていくのは、その人の意思であり、行動であると思います。この力が一番大きいのです。

 

 ということは、この世の闇も悪も、仕組みを理解すれば、極端に恐れる必要もなくなるのではないでしょうか。確かに闇は存在します。でも、そちらにフォーカスを合わせることなく、なすべきことをこなしていれば、必ず守られます。光を選ぶか闇を選ぶか、その選択権は、私達に委ねられています。闇に堕ちたくなかったら、選ばなければいいだけです。選んでいないと思っても、闇に引っ張られているのであれば、深いレベルでは選んでいます。光を選ばない理由が、何かしらあるはずなのです。

 

 

光と闇Ⅶ

 私たちの耳に囁いてくる悪魔の囁きは、大きなものから小さなものまで、内容も形態も様々です。闇の度合いが深い、非常に邪悪な悪魔の誘いは判別もつきやすいので、気を張っていればよほどのことがない限りそちらに引きずり込まれることはないでしょう。闇サイドにどっぷりとつかってしまっている人間というのも、見て明らかなのでこちらもわかりやすいかと思います。

 やっかいなのは、光なのか闇なのか、一見わかりづらいようなやり方で近づいてくる輩です。神や仏のような高尚な存在を装ったり、その人のためになるかのような表現で、甘い誘惑の言葉を囁いてきたり。先日書いたヨガの講師の例のように、物理的な成功を収め、富や名声を得だした段階で巧妙に罠を仕掛けられたりします。そして、今度は罠に引っかかって堕ちてしまった人が、他の人を引き込む側に周り、巧妙な手口で自分の勢力を広げようとします(本人が表層意識では無自覚でやっていることも多いです)。自分がたいそうな存在であることをアピールしてきたり、物理的な富に固執していたり、人からの称賛に酔っているようなタイプの人は、大概この虚栄心の罠にはまっていると思っていいです。

 

 闇の存在は、人間が生き生きと光の存在として活動することを厭います。なのでよく、人がいざアクションを起こそうとする前の段階で、あの手この手で邪魔をしてきます。

 

「自分には才能がない」

「失敗するかもしれない」

「周りに反対されるかもしれない」

「お金がないからできない」

「馬鹿にされるかもしれない」

 

・・・この類の囁きを本気で信じてしまい、本当は動きたいのに重たい腰が上がらず、ぐだぐだとやるべきことを先延ばしにしている人は、たくさんいるのではないでしょうか。やるべきことを先延ばしにしている人というのは、往々にして何かしらの言い訳をしてきます。「お金がない」という口実はよく耳にしますが、自分が無力であると強く信じてしまっているがために、「お金がない」という状況を自ら創り出している場合もあります。目の前にある現実は、その人が信じている世界なのです。変えたからったら、意識を変え、言葉を変え、行動を変えればいいのです。言葉もエネルギーです。「できない」と言い続けていたら、できないままです。それを一度、「できる」に変えてみてください。何かが変わってくると思います。

 日本人の習性として、自虐的に自分を表現することがよくあります。「私は〇〇だから」(〇〇の中にはネガティブな表現が入ります)などと言って、自分を卑下したような言葉を吐いているのをよく耳にします。あれなどは、呪いの呪文を口から出しているようなものです。誰の得にもならないのに、なぜ皆そのようなことをいうのだろうと思います。自分に対して卑屈になっている人が、他の人を幸せにすることができるでしょうか。

 

 それまでの習性や行動を変えるには、かなりのエネルギーがいります。それが億劫だったり、不安だったりして躊躇してしまう人間の心の隙に、悪魔は入り込んできます。怠惰な心や恐怖心を、どんどん煽ってきます。何も変えずにこのままでいる方が「安全である」と、人間を信じ込ませようとするのです。そして、なんとなくそこに留まっていた方が安心するような錯覚を起こさせます。

 

 

 

イエス様はよくたとえ話を用いて民衆に福音を説きました。その中の一つに、「タラントのたとえ」というお話があります。

 

「天の国は、旅行に出かける人が僕(しもべ)たちを呼んで財産を預けるようなものである。

 

ある人が、僕たちそれぞれの力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、一人には1タラントを渡して旅行に出かけた。5タラント預かった者は早速行ってそれを働かせ、他に5タラントを儲けた。同じように、2タラント預かった者も他に2タラントを儲けた。しかし1タラント預かった者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。かなり日が経ってから主人が帰ってきて、僕たちと貸し借りを清算した。まず5タラント預かった者が進み出て、他の5タラントを差し出して言った。

『ご主人、5タラント預かりましたが、ご覧ください、他に5タラントを儲けました』

主人が言った。

『感心感心、忠実な善い僕よ、少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』

2タラントの者も進み出て言った。

『ご主人、2タラント預かりましたが、ご覧ください、他に2タラントを儲けました』

主人が言った。

『感心感心、忠実な善い僕よ、少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』

最後に1タラント預かっていた者も進み出て言った。

『ご主人、あなたは種をまかないところで刈り取り、金をまき散らさないところで集める、きつい方と知っていたので、商売をするのが恐ろしく、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。そら、お返しします』

主人が答えた。

『怠け者の、悪い僕よ。私がまかない所で刈り取り、まき散らさないところで集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうすれば帰ってきたとき、元金に利子をつけて戻してもらえたのに。では、その1タラントをその男から取り上げて、10タラントを持っている者に渡しなさい。誰でも持っている人にはさらに与えられてあり余るが、持たぬ人は、持っているものまでも取り上げられるのである。さあ、この役に立たない僕を外の真っ暗闇に放り出せ。そこで喚き、歯ぎしりするであろう』

――――マタイ25

 

 「タラント」というのは古代ギリシャやローマで用いられた通貨の名前ですが、英語で「才能」という意味を表す"talent"(タレント)という言葉は、このお話から派生したといわれています。

 

 私たちは神様から皆、何かしらの才能を与えられています。何も与えられていない人など、一人として存在しません。勇気をもってそれを生かそうとする人を、神様は応援します。恐れに邪魔されて、せっかくの贈り物を無駄にしてしまうのは、もったいないことです。

 

 

光と闇Ⅵ

 イエス・キリストが荒野で断食をしていた際、語り掛けてきた悪魔の言葉の一つは、

 

「もしお前が私にひれ伏して拝めば、この世の国々とその栄華を全てお前にくれてやろう」

 

というものでした。イエスはこれに対し、

 

主である汝の神を拝し、ただこれにのみ仕えなければいけない

 

という聖典の言葉をもって悪魔(サタン)を退けます。

 

 

 人が魂の修行を重ね、ある程度の智慧と経験がつき、現世において何らかの分野で他者に教えるレベルの技術なり知識なりがついてきた頃。情熱をもってその業に励めば、それなりに人がついてきます。事業も成功し、金銭も潤い、人気はますます上がるでしょう。フォロワーも増え、知名度が増し、仕事の依頼が次から次へと舞い込みます。こうした、現世的な”成功”を手に入れた段階で、イエスにも囁いた悪魔の誘惑に負け、虚栄心の罠にはまっていく人の姿を、私はこれまでたくさん見てきました。

 

 人を癒す仕事や、元気づけるような仕事に就いている人でさえ、この悪魔の囁きをきいてしまっていることがあります。初めは純粋な気持ちで、人を助けたい、癒したい、誰かの役に立ちたい、と始めたはずなのに、世間の賞賛や認知を手に入れ始めると、次第に最初のピュアな動機を忘れ、もっと認められたい、もっと支持者を集めたい、もっと儲けたいという欲へと駆り立てられて、あちら側の誘惑に屈してしまう。

 うまくいっている時こそ、悪魔の囁きに気を付けて、自分が一体何のためにこれをやっているのか、冷静に見つめなおす必要があるように思います。うまくいっているかのように見えても、その人を動かしている原動力が”欲”なのであれば、エネルギーが濁り、波長が乱れるので、結局はどこかの段階でうまくまわらなくなるものです。集まってくる人も、それなりの人がくるようになります。

 

 かつて、少しの間だけですが通っていたヨガ教室があります。そこのオーナー(兼インストラクター)は、とてもエネルギッシュな人で、人を引き付ける魅力がありました。スタジオはできたばかりで綺麗で、雰囲気も明るかったので、たくさんお客さんが集まってきていました。レッスンの内容も工夫を凝らして飽きないようにしていましたし、口コミで人気が更に高まり、一時は人数制限をしなければいけないほどレッスンもいっぱいでした。

 そんな状況に、オーナーは非常に満足している様子でした。何人もの弟子がいて、その弟子たちは皆、カリスマ的オーラを放つオーナーに心酔しているのがわかりました。オーナーが言うことは絶対で、意見を述べることや、オーナーより目立つことは許されていないようでした。技術を高めるために外部のレッスンを受けることも禁止されている、とそのうちの一人は言っていました。

 

 ある時、私はたまたまそのオーナーと話をする機会がありました。スタジオの隣にある事務所のような場所に、レッスン後にお茶を自由に飲んで良いスペースがあり、そこで話していました。その部屋の壁には、古事記に出てくるような時代の衣装を着た女性が描かれた、大きくて派手な絵が飾られていました。

「あの絵の女性は誰ですか?」

と私が聞くと、オーナーは、突然黙り、私の目をじっと見つめると、声を潜めるようにしてこう言いました。

 

「あの絵はね、私よ。私。あの絵に描かれているのはね、天照大神(あまてらすおおみかみ)。私はね、こうして人間の姿をしているけどね、本当はあれが私の姿なの」

 

 何と答えたらいいかわからず絶句している私をしり目に、その人は満足そうな表情を浮かべていました。

 

 その後すぐ、私はそのスタジオを辞めました。辞めてから数年程経った頃、ふと、あのスタジオはどうなっているのだろうと気になり、久しぶりにホームページを覗いてみたことがあります。すると、一時の権勢は見るからになくなっているのが、ホームページを見ただけでも明らかでした。2桁はいたであろうインストラクター達のほとんどが、いなくなっていました(特にオーナーに心酔していた人達が辞めていました)。レッスンの数もごっそりと減り、スケジュールはすかすかでした。あれほど頻繁に開催されていたイベントの類も、全てなくなっていました。強気の値段設定だった単発レッスンの値段も大幅に下がり、人が来ていないのがみてとれました。

 

 私は、自分が天照大神だと述べた時のオーナーの顔が思い浮かびました。あの人気絶頂だった時、彼女は悪魔の囁きをきいてしまったのだなと思いました。

 

 神様は、私達にたくさんのものを与えてくれます。求めれば、特にです。与えられた贈り物をどのように活かすかは、私達の選択に任されています。

 

 そして、悪魔の囁きは、狡猾で、人間の耳には甘いものです。力を手に入れ始めた人間に、それはますます強く語りかけます。なぜなら、あちらの存在は自分たちのパワーを高めたいからです。力を持っている人間を動かしたがるのは、そのためです。光の領域にいる(もしくはそこに向かって努力をしている)人は妨害しようとし、闇に足を踏み入れた人は更に引きずり落そうとします。闇に引っ張られて堕ちていく人の姿を見るのは悲しいことです。

 

 現世的な成功を手に入れた時ほど、気を引き締めていかなければいけないのだと思います。

 

 

光と闇Ⅴ

 古今東西、多くの為政者たちは、集団心理を都合よくコントロールするツールとして「恐怖」を利用してきました。21世紀の現在においても、恐怖心を植え付けることで国民を黙らせ、反抗させないように抑え込んでいるリーダーたちはたくさんいます。暴力的で理不尽な見せしめを行うと同時に、従順な人には安定や富を与える。こうした飴と鞭を使い分ける手法により、人々から意思と自由を奪い、抵抗する力を弱らせているのです。

 

 こうした支配・被支配の構造は、国家規模に限らず、組織やグループ、仲間内やパートナー、家族の間においてさえも、実はよく起こっていることです。相手に恐怖心や無力感を植え付けて、自分の立場を優位にさせようとする。こうしたパワーバランスは、実は一対一の関係性において頻繁にみられます。支配する側がかなり意識的に行っていることもあれば、本人も何が起こっているのかよくわからないうちに、そういう関係性なってしまっている場合もあります。

 

 やっかいなのは、多くの場合、支配される側の立場の人の方が、そうしたパワーバランスの渦中にいるという事実に、なかなか気が付きにくいということです。もしくは、自分がいびつな関係性に陥っていることに気づいていたとしても、そこから抜け出すことが困難に感じていることが多いです。相手との関係性において、自分は無力だという認識を抱いてしまっていますから、そう簡単に抜けられるはずがない、と信じ切ってしまっているのです。

 冷静な視点でみてみれば、誰かにコントロールされ、自分の望みや思いが押し殺されている状況自体が、不自然で歪んでいます。けれど、相手に力を明け渡してしまっている人というのは、今の状況が「変わる」ということに対してさえも恐れを抱き、アクションを起こすより現状維持を望んでしまうことが多いのです。

 

" The devil you know is better than the devil you don't know."

(知らない悪魔より、知っている悪魔の方がまし)

 

 本当はこんなことは嘘で、悪魔は悪でしかないのですが、恐怖心や無力感というものは、人の理性や判断力を鈍らせ、真実を見る目を曇らせてしまいます。そして、変化を起こす決断力や、行動を起こす勇気が湧き起こらないまま、自分には力がない、弱い存在だと勘違いしたまま、他の誰かに自分の意思決定機関を委ねてしまうのです。

 

 支配・被支配の関係性に陥っている場合、被支配側にいる人は、受け身の姿勢でいることが多いです。元々穏やかで、周囲に自分を合わせるのが得意な、受け身の態勢を取りがちな性格の人が被支配者側になりやすいように思います。そのためか、誰かとの関係性に対して、今のような状況になっているのは、相手がそれを望んでいるからだと思う傾向が強いです。本当は、人との関係性において、一方だけの思いが現実化するということはありません。現実に起こっていることは、自分自身が招き寄せていることです。一方通行ではなく、双方の思いが結実したことによって、起こっています。

 ですから、生き方や人生を誰かにコントロールされ、自分は無力なのでそれに従うしかない、と思い込んでいるかもしれませんが、その状況を望んでいるのは、自分自身でもあるのです。望んでいるというとやや語弊があるかもしれませんが、少なくとも、「そうなるもの」だと深く信じているために、現実がそうなっているわけです。宇宙はシンプルに、そんなあなたに対してぴったりの、人を支配するのが得意な人物をあてがっているだけです。

 

 では、そんないびつなパワーバランスから抜け出したい時はどうしたらいいか。答えは簡単です。「もうこんな関係性から抜け出す」と強く決心することです。自分は無力なのではなくて、無力だと思い込んでいるだけです。まずは、そう思い込んでいる自分と決別するのです。そして、宇宙に宣言します。私は自分の意思と自由を取り戻します、と。

 まずはこの決意表明を行ってください。意思の力は絶大なので、この宣言がきっかけとなり、エネルギーが動き出します。おそらく想像以上のスピードで、相手と対峙するシチュエーションがやってくるはずです。その時に、いつもの恐怖心に負けないこと。相手と闘うのではなく、自分の中の恐れと闘っていると思ってください。そして、勇気をもって自分の発すべき言葉を述べ、とるべき行動をとってください。毅然とした態度で。

 

 人をコントロールしたがる人というのは、本当は案外コンプレックスにまみれていて自分に自信がなかったりします。それまで弱いと思い込んでいた人が、急に自信に満ちて堂々とした態度をとってきたりすると、ひるんで目を泳がせたりします。これまでの、自分にとって都合がよかった関係性が終わることを察して、怒りをぶつけてくるかもしれません。しかしこの怒りというまやかしに負けてはいけません。怒りこそ、恐怖心の表れだからです。相手は恐れているのです。

 

 信じてほしいのは、闇よりも光の方が強いということです。恐れや悪意に対して、こちらが愛と善意で応じれば、必ず勝てるのです。これは、現実世界でも、見えない世界でも同じことです。闇は光に勝てないことを知っているので、あれこれと小手先のまやかしテクニックを使って、相手を騙そうとしているだけです。

 

 闇に焦点を合わせるのではなく、光に焦点を合わせてください。そうすれば、光のパワーを味方につけ、見える世界でも見えない世界でも、助けてくれる存在が現れるはずです。信じる気持ちと、希望を捨てないこと。どんな状況でも、心から自分が望みさえすれば、変えることができます。

 

光と闇Ⅳ

 幼い頃、私は人の話をいとも簡単に信じてしまう子供でした。あまりにも疑いなく何でも信じてしまうため、ある時遊びに行った家にいた年上のお姉さん達が面白がって、「このぬいぐるみの犬は夜になると動くんだよ」とか「あそこにおばけがいてこっちを見ているよ」などと言って私を怖がらせ、すっかり信じている私を見て皆で笑っていたことがありました。

 

「この子は何でも信じちゃうから気をつけた方がいいよ」

 

と、その中の一人が誰かに耳打ちしているのも聞こえました。けれど私は、その人たちが話していることは全部本当だと心から信じていたのです。それはなぜかというと、その時はまだ、人が嘘をつくこともある、ということを知らなかったからです。

 

 成長するにつれ、さすがに人の言っていることの全てを丸々信じることは減っていきました。この人は本当のことを言っているのか、嘘を言っているのかの判別ができるようになっていきました。

 そして更に、たとえその人が心から信じて話していることだとしても、それは私にとっての真理とは限らない、ということもだんだんわかってきました。数々の失敗を重ねて感じるのは、世の真理というものは、思っている以上にひっそりと存在している、ということです。真理に到達した人ほど自己顕示欲がなくなるものですし、今の社会のシステムの中では、真理そのものが裏に隠れてしまうのも、無理のないことです。世界三大聖人といわれる釈迦・孔子・イエスキリストはどの人も、自分で書物を残していません。この三人が語った言葉が、伝聞で残っているだけです。

 一方で、「皆私の話を聞きなさい」と言わんばかりに自らをアピールしてきたり、自分の言っていることが他の情報より正しい、価値がある、といった傲慢さが感じられたり、売り上げを伸ばしたいという金銭欲が見え隠れするような存在には要注意です。

 

 世の中には、アピールがとても上手な人たちがいます。それは単なるテクニックの問題であり、その人自身の価値や、言っている内容の純粋性とは関係ありません。むしろ、必要以上にアピールに力を入れているということは欲の表れですから、そういった人の口から出てくる情報も、それ相応のものと考えた方が良いでしょう。

 

 欲というものは、その人が捨てようもしくは制御しようと決心しない限り、雪だるま式に大きくなり、やがてはその人自身もコントロール不能になるレベルにまで肥大化していくものです。小我の欲に基づいて手に入れたものは、それを手に入れた瞬間に魅力を失い、また次に欲しいものが現れます。その終わりのないサイクルに飲まれ、我を失い、道を踏み間違えたまま、力だけを蓄えていく為政者たちが、世の中に溢れかえっています。

 

 そうした強欲な人たちがなぜここまで権力を持ち得るのか、不思議に思うかもしれません。けれど、悲しいかな、そういう人たちにパワーを譲り渡してしまっている人々がそれだけたくさんいるということなのです。

 

 正義感ではなく、我欲に基づいて力を拡大しようとする人が、他の人々をコントロールする際に、共通して用いるツールがあります。それは、恐怖心です。

 

 

光と闇Ⅲ

 右のイラストのイメージは、昔からよく使われるモチーフで、馴染みがある方も多いかと思います。

 

 アイルランド人のローナ・バーン(Lorna Byrne)さんは、幼い頃から日常的に天使や天使的な存在を目にしてきた人で、その経験をいくつもの本に記しています(日本語に翻訳されているものもあります)。ローナさんには、普通の人間と同じように天使が見えるそうなのですが、天使たちは常に人間をサポートする活動をしていて、このイラストのように、人が何かをしようとしている時や迷っている時、決断をするときなど、ひっきりなしにその人のためになる言葉を囁きかけているそうです。けれど、天使たちも私たちの意思を妨害することはできないので、いくらその人のためになることを助言しても、その人自身が決断しない限り、無理やり考えや行動を変えることはできないとのこと。この宇宙には自由意思の法則が働いているので、天使であってもそのルールには逆らえないのです。ちなみにローナさんによると、天使たちは、たとえ人間が自分たちの助言を聞かず、悪の道に進んでいったとしても、決して見捨てることはしないそうです(悲しそうな顔はしているとのことですが)。

 

 一方、アメリカ人のブレイク・ヒーリー(Brake Healy)氏は、幼い頃から天使的な存在だけでなく、悪魔的な存在も同じように目にしてきた方です("The Veil", "Indestructible", "Profound Good")。ヒーリー氏によると、天使的な存在達は確かに、私たち人間を守ったり導いたり、絶え間ない援助の手を差し伸べてくれているそうです。それと同時に、悪魔的な存在達もまた同様に存在していて、私たち人間に対し、すきを見ては誘惑したり憑りついてみたり、妨害を加えようと常に機をうかがっているとのこと。興味深いのが、そうした悪魔的な存在は、人が善意に基づいた決心をした瞬間にパッと離れたり、ポジティブな行動をし続けていくうちにだんだん小さくなって終いには消えていくということです。

 

 結局、目に見えない存在達は、私たちをサポートしたり妨害しようとするけれど、根本的に方向性を決めているのは、私たち人間の意思であるのだなと思います。目に見えないエネルギーは確かに存在していますし、多かれ少なかれその影響は人間世界に及んでいます。しかし、光の存在を味方につけてポジティブに歩んでいくか、闇の存在に翻弄されて目的を失い、停滞し続けたり堕ちていくかどうかは、自分たち次第というわけです。

 

 

 

 映画「スターウォーズ」に出てくるダースベイダーというキャラクターは、元々は天才的な能力をもった、純粋な若い騎士でした。しかし、力を得たいという望みをもった時、暗黒面の存在の甘い言葉に誘われ、その誘惑に乗ってしまいます。暗黒の力を手に入れると同時に、彼はダークサイドに堕ちていってしまうのです。

 

 この物語は、私達人間の「力(パワー、フォース)」に対する憧れと欲望、そして誘惑に負けて相手の罠にはまり、闇に堕ちていく様をよく表していると思います。私達は、常にこの誘惑には意識的でいなければいけません。なぜなら、闇が渇望し、どんな手段を用いてでも手に入れようと絶え間ない攻撃を仕掛けている理由とはまさに、この「力」を手に入れたいがためだからです。

 

 

光と闇Ⅱ

 ~下なるものは、上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし~

 

 

 聖書によると、イエス・キリストは、群衆の前に出て教え導く前、荒野にて40日間の断食修行を行ったとあります。そこでイエスは、悪魔(イエスは「サタン」と呼んでいます)にそそのかされ、試されますが、どの誘惑にのることもなく、これを退けます。悪魔は離れ去り、代わりに神の使い(天使?)達がやってきてイエスに仕えた、とあります。

 

 私たちは多かれ少なかれ、日々、この「悪魔」との闘い、葛藤を繰り返しながら生きているのではないでしょうか。

 

 「悪魔の囁き」は本当に存在するのです。というのは、悪魔そのものが存在するからです。私はこの事実を自分の中ではっきりと認めるようになってから、何が光で何が闇なのか、自分の中のこの声は光から来ているものなのか、それとも闇からきているものなのか、判別しやすくなりました。それと同時に、世の中の人々の言動を駆り立てているものが、光を目指してのものなのか、それとも闇の誘惑に負けてのものなのかということも、よりわかるようになりました。

 

 闇―――悪、悪魔、敵、サタン、ネガティビティ、Dark Entity, etc... 様々な呼び方があると思いますが、こうした言葉を、「あちら側」にいる存在・エネルギーの総称として使おうと思います。

 

 おそらくこの文章を読まれている方は、目に見えない存在、見えない世界の存在を信じ、同時にそれらの存在を日常的に感じておられることと思います。フラワーエッセンスやアンジェリックエッセンスは、高い波長の善なるエネルギーでできていますが、光の存在の助けを借りてつくられています。私たちがエッセンスを取り入れると、そのバイブレーションの影響を受け、私たちの光の部分が刺激を受けたり、増幅されたりします。

 

 高い波長が存在するということは、その逆の低い波長も存在するということで、低い波長を放つ存在もいるということになります。

 

 光の世界の中には、当然ですが様々な存在がいて、役割分担があったり、なかなかにシビアなヒエラルキーがあったりするようです。

 

 そう、そしてそれは闇の世界にも当てはまります。様々な存在、役割分担、ヒエラルキー。闇の世界の手下のような存在から大ボスまで、ありとあらゆる形態、力をもった存在達が跋扈しています。

 

 精神世界やスピリチュアリズムに関心がある人の多くは、光の世界に惹かれ、また自分自身も光であろうと努力していたり、光でありたいと望んでいると思います。けれど、残念ながら必ずしも全員が光の影響を多く受けているとは限りません。中には自ら望んで闇の存在に焦点を当て、そうした存在とコンタクトをとったり、それらの力を借りることによって人間世界での勢力を拡大しようと目論んでいる人もいます。

 または、本人が気づかないうちに、闇の存在の影響を強く受けてしまっていることもあります。相手は非常に狡猾で巧妙な手口を使ってきます。あたかも光の存在であるかのように人間に近づき、囁き、惑わせ、道に迷わせたりもします。”恐れ”のもつパワーを用いて人をコントロールするやり口は、そうした存在の常套手段です。特に人間が弱っている時や、困難な状況に陥っている時、欲にまみれている時など、ターゲットになりやすいです。そうした時は、私たちの波長も乱れがちで、ネガティブな存在と波長が合いやすくなるからです。

 

 

 見えない世界には、光だけではなく闇も確かに存在していること、そしてそうした存在は常に、あの手この手を使って私たちを罠に陥れようとしていること。そうしたことに意識的でいるだけで、誘惑の落とし穴に落とされることがだいぶ回避されるのではないでしょうか。敵から身を守るためには、相手をまず知ることが大事です。恐れるのではなく、落ち着いて向き合うこと。そして必要な手段をとること。

 

 何より、どのような存在がやってきても常に軸がぶれない真の自分自身でいること。そのような強い存在になるために、どんな努力も惜しまないでください。結局、究極的にはそれしか自分の身を守る手段はないのですから。

 

 

光と闇Ⅰ

 私が子供だった頃、日本はアニメ全盛期時代でした。毎日夕方になると、テレビでは何かしら楽しいアニメがやっていましたし、お気に入りのアニメがある曜日は、朝からワクワク楽しみに過ごしていたものです。中でも一番夢中になって見ていたのは、世界名作劇場のような外国のお話や、ファンタジーものでした。兄がいたので、男の子向けの戦闘ものや、アドベンチャーものもよく見ていました。

 

 戦闘・アドベンチャー系のお話では、必ずと言っていいほど、主人公(やその仲間たち)に対抗する、「敵」が出てきます。それらの「敵」は、「悪」をわかりやすく体現している存在たちでした。意地悪で狡猾、力を破壊のために使い、暴力的。見た目や言動も、相手を威嚇したり、恐怖心を煽るようなものばかり。アニメの中の話とはいえ、人に恐怖心を抱かせる手法の効果は、ブラウン管を通しても伝わってきたものです。

 アニメや映画、小説、ゲームなど、子供が夢中になる話には、普遍的なテーマが流れているものが多いと感じます。そこに何かしらの真理があるからこそ、子供達が純粋に反応するのだと思います。

 アニメの中のお決まりのパターンは、初めは弱かった主人公が修行をして強くなり、悪の権化である敵のボスを倒す、という流れです。子供心に、主人公が紆余曲折を経ながら、諦めることなく敵に立ち向かっていく姿に、爽快感を覚えたものです。

 

 

 大人になり、物事はそう単純じゃないかのように見えたこの世界。長い間、光を求め、光を目指すあまり、光以外は否定し、拒絶する癖がついていました。自分も自分以外も、光以外の部分は見たくないし認めたくもない。そこに「ある」ということを、なかなか受け入れられなかったのです。

 

 しかし、長い間模索して迷走して問いかけて、己に向き合いながら求め続けていった結果、やはりどうしても避けて通れない道があると気づいたのでした。

 

 光に向かって歩んでいくためには、まずは目を背けずにきちんと、正面きって向き合わなければいけない。拒絶するのでも否定するのでもなく、存在をまず認めて、その本質を知る。

 

 

 

 

 その覚悟を決めて以来、私は徹底的に「闇」と向き合うことにしたのです。

 

 

信長考

 織田信長という人は、意思の力を使って現実を動かしていく能力に長けていた人なのだろうと思います。

 

 一度決めた日程は、何があっても決して変更することがなかったといいます。時には大嵐の中出陣したり、船頭も止める程荒れた海を渡る決断をすることもあったようです。絶対に渡れる状況ではないと思われた川でも、信長軍がいざ入ってみると、なぜか無理なく渡ることができ、後日同じ場所を渡ろうとしても大変な深さで無理だった、といった逸話もあります。

 

 またある時、火起請(ひぎしょう:昔の裁判の一種で、両者決着がつかない場合、熱した鉄を持たせ、持てなかった物の申し立てを虚偽とした)が執り行われている現場を通りかかった信長は、熱した鉄を取り落とした左介という人物が騒いでいるのを見て、同じように熱した鉄をよこすように言いつけます。そしてそれを自ら手の上に受け取ると、三歩歩いて棚に置き、「この通りだ。見ていたな」と言って、左介を成敗させたといいます。自分が無事に受け取る姿を見せることで、文句を封じたわけです。

 

 信長は、現実は意思の力で動かせることを知っており、自分が「こうなる」と決めたことは、必ずその通りになるという自信があったのではないかと思います。また、直観力も鋭い人だったようです。戦という、生きるか死ぬかの瀬戸際で数多くの経験を積むうちに、不可能を可能にしていくコツのようなものを身につけていったのかもしれません。

 

 信長は、人心掌握術にも長けていたようで、どうすれば人は動くのかをよく知っていたようです。ある場所に城を築こうとした際、信長は、最初に大変険しい土地を選び、そこに城を建てると宣言します。家臣たちは、難儀な場所に城を築くものだと不満を抱きます。するとしばらくしてから、今度は最初に言った土地よりもやや建築しやすい土地を選び、「この場所に変更した」と触れを出します。最初に比べればまだましな土地に変わったことで、家臣たちは喜んで城の建築に取り掛かった、といいます。本当は、最初からその土地に建てるつもりだったのです。

 

 また、建築などの工事を行う際には、現場に美しく着飾らせた若者を呼び、笛や太鼓で拍子を合わせて囃し立て、場を盛り上げさせたそうです。工事に携わる人々は、皆調子よく仕事をした、といいます。大変重く大きい石を運ぶ際には、石に美しい布を被せ、たくさんの花で飾らせて、やはり笛太鼓で囃し立てる中、信長自らが馬に乗って先導し、たちまちのうちに移動が完了したこともあります。

 

 

 比叡山を焼き討ちにしたり仏僧を容赦なく殺戮した信長ですが、神社に寄進をしたり、自ら参拝していた記録があることから、信仰心がなかったわけではないようです。

 ただ、最晩年(といってもまだ40代でしたが)の頃は、自らを神にみたて、自身の代わりとなるご神体を祀らせた神社を造って人々に参拝を命じるなど、徐々に驕りが加速していったように感じます。

 現実が次々と自分の思う通りに動いていき、公家や天皇さえも動かせるほどの力を持った信長は、驕りという誘惑に打ち勝てなかったように思えます。力を持った時に謙虚さを保つことほど、難しいことはないのかもしれません。 

 

 

                                       〈参考文献〉

『完訳フロイス日本史』ルイス・フロイス著/中公文庫

『信長公記』太田牛一著 中川太古訳/新人物文庫

 

責めたくなるのは人の性(さが)

 今から何百年も昔、ヨーロッパを中心にペストが猛威を奮った時代がありました。一度罹患した人の致死率は約9割ともいわれ、当時はまだ特効薬もなかったため、まさに死の病でした。ペストが蔓延した地域は、村と言わず町といわずたちまち死者が膨れ上がり、人口の3分の1から多い所で5割ほどまで減ってしまったほどでした。

 現代のように衛生学・医学・細菌学の知識が発達しておらず、原因も対処法も漠然としていた当時の人々にとっては、得体の知れない伝染病に対する恐怖心たるや、いかばかりだったかと推察されます。

 

 そのような状況で、どこからともなく流れてきた噂に、

 

「この病気は、ユダヤ人が井戸に投げ込んだ毒から発生している」

 

 といったものがありました。当時の社会においてユダヤ人は、キリスト教下にある人々から疎まれる存在でした。確実な根拠もないまま、この噂は瞬く間にヨーロッパ中に伝わり、各地でユダヤ人に対する暴力や虐殺が相次ぐことになります。虐げられたユダヤ人は東へと逃げたため、東ヨーロッパにユダヤ人の居住地が多くなったといわれています。その後時代が進み、第二次世界大戦の時、東欧の多くのユダヤ人が、今度はナチスの手によって虐殺の対象となっていきます。

 

 

 日本においても、1923年に起こった関東大震災の際、混乱の内に「朝鮮人が暴動を起こしたり、毒をまき散らしている」といったうわさが人々の間を飛び交ったことがありました。こちらも確固たる証拠もないままに、当時日本に住んでいた多くの朝鮮人達に刃が向けられ、大勢の方が犠牲になったといわれています。

 

 

 そして今、コロナウイルスが世界中の脅威となっている状況下で、特定の国や人々が非難の対象となり、やり玉にあげられています。人類が何百年もの間繰り返してきた、”大きな災害が起こると、その時の社会においてやや忌み嫌われている存在に怒りの矛先が向かう”流れがここにきても起こっていると感じます。

 

 

 人は、説明のつかないような不幸や災害が身に降りかかった時、この災難をつくり出したのは誰なのか、誰が悪いのかと、責める相手を無意識に選んでしまうものなのかもしれません。どうして自分がこんな不幸な目にあわなければいけないのか。どうして自分が苦しまなければいけないのか。納得がいかなかったり、受け入れられなかったりすると、誰かのせいにしたくなるのです。

 

 

 誰かを恨んだり、怒りを抱えたまま生きるのがしんどくなった時。恨みや怒りを手放したいのだけれど、自分の中の何かが抵抗しているように感じるのであれば、どこかで自分が、この「人を責める」という誘惑に負けていないか、一度ゆっくり内側を見つめてみるといいかもしれません。人を責めないという選択は、かなり大きな決心が必要になるし、抵抗に打ち勝つパワーがいります。人間の、人類全体の抱える大きな闇に立ち向かうことでもあるからです。

 

 

 でも不可能なことではありません。誰でも、本当はできることだと思います。

 

誰のせいでもない

 繊細で敏感なタイプ、いわゆるエンパスやHSPと言われるようなタイプの人というのは、そもそも感情の影響を人一倍受けやすいです。

 他人の感情の影響を受けやすいだけでなく、自ら産み出した感情に圧倒されることも多いです。

 

 ですから、自分がそういうタイプだと自覚しているのであれば、一日のうちに何度か、マインドと感情をリセットする時間を作る習慣をつけた方が良いです。そうでもしなければ、気づいたら頭の中は常にエゴのおしゃべりが絶え間なく続き、それに基づいた感情が次から次へと湧き出してはそれに引っ張られて精神的に疲れる、という状況に陥ってしまうことでしょう。そんな状態では、理性で物事を考えることもままならず、自分の本当の望みも見失い、暗闇の中で一体今何をしたら良いのかもわからないまま迷子になってしまいます。

 

 エンパスやHSPといった人は、本質的に、優しい人が多いです。とても善の意識が高いです。であるからこそ、ネガティブな考えや感情を抱くことに対して、罪の意識が強くなるようです。理想の自分は愛に溢れている姿なのに、そうではない現状を認めることができなくて、自分を責めてしまうのです。

 あるがままの状態を受け入れることができないと、素直に感じている自分の思いや感情を否定することになります。そして否定されたままの思いや感情は、次々と内側に押し込められ、蓋をかぶせられて「ないこと」にされます。

 

 敏感タイプの人は、こういったわけで、内側にたくさんの怒りや悲しみといった感情をため込んでいることが多いです(そしてそのことを否定したり、隠したりする)。エネルギーワークをしたり、フラワーエッセンスを飲んでいると、こうした封印していた記憶や感情が一度に出てくることがあります。最初は驚くかもしれませんが、それは浄化のプロセスなので、あまり出てきたものにとらわれず、淡々と手放していった方が良いです。肯定も否定もせず、ただ、受け入れて愛で包んであげてください。

 

 

 

 もう一つ、敏感で繊細なタイプの人が陥りやすい落とし穴があります。それは、ともすると被害者意識孤独感が強くなりがちだということです。ご存じの通り、まだまだ不条理で理不尽なことがたくさん起こっている世の中です。善意で動く人ばかりとは限りません。そんな状況を目の当たりにすると、敏感繊細タイプの人は、どうしても傷つくことが多くなります。ショックを受けた時の反応が人一倍激しいので、次第に傷つくことを恐れて、必要以上に他人や社会を警戒してしまうようになったりもします。そして、次第に孤独を感じるようになります。誰も私のことをわかってくれない、私のこの苦しみを、痛みをわかってくれる人なんていない、私には居場所がない、助けてくれる人はどこにいるのだろう・・・

 

 そうなったときに、今のこのつらい状況に自分がいるのは、「周りのせい」だと思ってしまうと、自分が被害者になってしまいます。人は放っておくと、何か自分の身に望ましくないことが起こった際には、誰かのせいにしたくなるものです。

 本当は、自分の身に起こっていることは、大抵自分が創り出しています。無力に思えている自分は、本当は創造する立場にあるのです。状況を変えたかったら、自分が内側から変わること。これしかありません。他人を責めているうちは、物事が変わらないどころか、絶え間なく産み出される負の感情に圧倒され、本質が見えないまま、同じところでもがき続けることでしょう。

 

 

 そもそも、エンパス、HSPに生まれてきたこと自体を、受け入れていない人も多いかもしれません。敏感気質であることを、マイナスにとらえてしまっているのです。確かに、一見、損することが多いように思えるのかもしれません。

 けれど、世の中には、エンパス、HSPであるがゆえに味わう様々な困難を乗り越え、勇気をもって社会に出ていき、自分の持って生まれたギフトを最大限に生かしている人がたくさんいます。傷ついても立ち上がり、あきらめずに前向きにやるべきことをこなしていけば、自分の才能や経験を、他者への奉仕に役立てることだってできるのです。

 

 

「決して人のせいにしないこと」

「自分を憐れむのをやめること」

「持って生まれたギフトを大切に生かしていくこと」

 

 この三つを意識して、勇気と希望をもって行動を起こしていけば、必ず望ましい方向に導かれていくはずです。サポートもたくさんやってくるでしょう。

 

 

 

リベンジ欲求

 恨みや怒りを抱いてきた人をもう赦したい。そう決心した際、一番の障害となるのが、自分の心の内に潜んでいる、”相手に自分の苦しみをわからせたい””相手にも同じような苦しみを味わわせたい””相手が不幸であってほしい”といったような、「リベンジ欲求」かと思います。

 

 このエゴの声にいかに打ち勝てるかが、鍵になります。

 

 世の中生きていれば、いわれのない攻撃を受けたり、理不尽な扱いをされたり、侮辱されたり、傷つけられたり、嬉しくない体験を時々するものです。特に、子供時代や若い時などは無力であったがために、そういう経験も多かったかもしれません。

 私も人並みに、世の不条理は目の当たりにしてきたと思います。かつては自分の中に、いくつもの「ゆるせないこと」「ゆるせない人」がありました。

 

 けれどある時、もうこんなばかばかしいことはもうやめよう、と心底思うようになりました。なぜかというと、誰かを恨んだり憎んだりしていても、何のメリットもないことに気づいたからです。メリットがないことくらい考えたらわかるはずなのに、人間は不思議なことに、自由で平安でいられる道よりも、苦しみを抱き続ける道を選ぶものなのです。

 

 こう決心してから、なかなか切り離すのが難しかったのが、やはりこの「リベンジ欲求」でした。私の場合、自分を傷つけた相手を同じように苦しませたい、というよりは、相手に自分の味わった苦しみを知らしめたい、どれほど傷ついたのかを教えたい、という欲求が大きかったです。

 

 

 

 様々な葛藤もありましたし、やはり無理なのかと何度もあきらめそうにもなりましたが、結果的に、自分が赦そうと思った相手は全て赦せるようになりました。今では誰も恨んだり憎んだりしていません。自分を傷つけた相手に対しても、心の中では、その人の真の幸福を望んでいます。罪を憎んで人を憎まず、です。きれいごとではなく、本当にそう思っています。他人を攻撃したり、傷つけたりする人は、そもそもその人の心がどこか満たされていないからそういう行動をとっているのです。人は心が満たされていれば、決して他人を傷つけるようなことはしません。自分が傷ついているから、他人を傷つけるのです。そのことを思えば、相手に負の感情を抱き続けるより、相手の心の傷が癒されることを祈っていた方が、あらゆる面でプラスになるはずと思えます。

 傷つけられた人が、自分を傷つけた人の内にある苦しみではなく、「自分が」傷つけられたことに固執し、恨みを抱き続ける。そんなことがずっと繰り返されていけば、憎しみのループを断ち切ることなんか永遠にできません。憎しみを抱くことは苦しみでしかなく、その道を選べば魂の成長はそこで停滞し続けること、そして、自分を傷つけた相手を裁く資格は本来自分にはないということ、この事実を謙虚に受け入れられれば、手放して自由になる道を選ぶことがたやすくなります。

 

 もちろん、一方的に理不尽なことをされたりして、実害を被った際には、必要な主張はしていいと思います。攻撃から守るために、防御することだって大事です。ただし、それは理性を伴って行うべきで、決してリベンジ欲求に基づいて動かないことです。エゴに基づいた行動は、必ず裏目に出ますし、自分の身のためにもなりません。自分にゆるされた、なすべき行動の範疇を超えたことをすれば、余計なカルマを創り出すことになります。

 

 

 

 

 リベンジ欲求に打ち勝つために、助けとなってくれそうなエッセンスを挙げておきます↓

 

〈パワーオブフラワー〉

『パッションフラワー』

『セージブラッシュ』

『ブラックコホッシュ』

 

〈オーストラリアンブッシュ〉

『ピンクムラムラ』

『ピンクフランネルフラワー』

『サザンクロス』

『サンシャインワトル』

 

〈アンジェリック〉

『Unconditional Forgiveness(アンコンディショナルフォーギブネス)』

『Release(リリース)』

『Releasing Resentment(リリーシングリゼントメント)』

『Clearing Repeating Memories(クリアリングリピーティングメモリーズ)』

 

 

ジャッジをしない

 瞑想を習慣的に行うようになって10年ほどになりますが、まだまだ足りない、もっともっと瞑想の時間を取らなければいけないな、と感じています。そのくらい、長年の間に蓄積されていった心の”垢”のようなものは強力に張り付いているものですし、リリースしなければいけないこともたくさんあります。

 

 それでも、瞑想を続けていくうちに、以前と比べればだいぶ、頭のおしゃべりが減りましたし、物事を色をつけてみないようになってきました。

 

 物事や他人に対して「ジャッジをしない」ことは、本当に難しいものです。私たちは、物心ついてから、たくさんの偏見や思い込み、思考パターンを知らず知らずのうちに身につけてきました。その時の自分を守るために必要だったケースもあるかもしれません。けれど、いつまでも必要のない偏見や思い癖を持ち続けると、自分の世界を狭め、受け取れるものも受け取れなくなってしまいます。そして、偏見は特に、悪しき感情や思考を産み出す根本原因になり得るので、偏見を抱けば抱くほど、自分が苦しくなります。

 瞑想と同時並行で私は、とにかく物事や人を「色付け」しないで見る訓練をするようにしてきました。自分の身に起こった出来事も、目に映る景色も、他人の言動も、それに対して自分が色付けさえしなければ、それらはただの現象・事象でしかなく、良くも悪くもない、ただそれが「ある

」「起こった」というだけのことでしかありません。あらゆる物事は、本来全て中立なのです。中立な見方をするようになると、何かに執着したり、とらわれることが減っていきます。

 

 誰かから攻撃されたとしたって、その出来事に色付けさえしなければ、冷静に眺めて冷静に対処することができます。色付けをせずに眺めれば、必要以上に反応することもなくなります。自分が悪かったことがもしあれば、そこは素直に認めて今後に生かしていけばいいのであって、そのことで自分を責めたり、卑下することもありません。罪悪感や自己嫌悪は、不必要な反応です。人から攻撃されたことを、中立の目で見ていないことで起こります。

 起こった出来事を中立の目で見れば、攻撃してきた人の立場や、その人の抱える問題に対しても、冷静に目を向けることができるようになります。相手の言動にばかりフォーカスして、それに対して感情的に反応してしまうと、いつまでもその出来事を受け入れることができないし、怒りを抱き続けることになります。冷静な目で見ることができないということは、真実に気づくことができないということです。

 他人に攻撃をする人のことを、冷静に眺めてみれば、その人の中にある、不安や恐れ、悲しみ、寂しさ、苦しみが見えてきます。そしてそれは、その人が抱える問題であって、そこに関して自分は、個人的に責任を負う必要はないということも理解できるようになります。

 

 

 物事にジャッジをしないということは、ネガティブなジャッジだけに限りません。必要以上に、「良い」ことや「ポジティブ」にとらわれてしまうと、その反対である「悪い」ことや「ネガティブ」を意識するようになり、両極性の罠にとらわれることになります。そもそも、自分が「良い」と判断している時点で、中立ではありません。

 

 

 

 アンジェリックエッセンスに、割と最近出た『Quiet Mind』(クワイエットマインド)というエッセンスがありますが、これなどは、頭のおしゃべりを静め、「無」の状態に近づけてくれる助けとなってくれると思います。バッチの『ホワイトチェストナット』も頭を静めてくれますし、囚われが強い場合は、オーストラリアンブッシュの『ボロニア』もお勧めです。こうしたエッセンスを取りながら、瞑想を継続して、根気強く、不必要な偏見や思い込みを手放す作業を進めていくと良いかもしれません。

 

全ては自分次第

 心の中に湧き出る感情や思いは、自分自身が生み出している。このことには、だいぶ早い段階から気づいていました。けれど、どうしたら湧き出る感情や思いに圧倒されずに済むのか、そしてそもそも、物事や人や言葉に対して必要以上に反応してしまうことをどうやったらやめられるのか、ということに関しては、長いこと無力なままでした。反応してしまうこと自体は、元々そういうタイプなのだから仕方ない、自分でどうにかできるものではない、とさえ思っていました。世の中にも「エンパス」や「HSP」といった言葉が浸透していき、それらのチェック項目の多くに当てはまる自分は、うまれつきの敏感体質で、人より過敏に反応してしまうのは当然で致し方ないこと、一生この気質と付き合っていくしかない、と思っていました。

 

 確かに、敏感体質自体は、生まれ持ったものであって、なくなるということは一生ないかもしれません。けれど、敏感であることと、自分がどのように「反応するか」ということは、本来別問題です。敏感であることは変えられないかもしれませんが、自分が何に対して、どのように反応するかということは、私が選ぶことができるのです。自分が見たり聞いたり体験したことと、それに対する反応は、切り離すことができます。どんな出来事が起ころうが、どんな人が周りにいようが、どんな言葉を投げかけられようが、それらに対して自分は無力なのではなく、その事象をどのようにとらえるかに関しては自分が完全に主導権を握っています。自分の身に起こったことを受け入れ、咀嚼し、経験という財産として、智慧として役立てていくかどうかを決めるのも、その人次第です。

 

 起こった出来事に対して、受け身でいることも、否定し続けることも、一つの選択です。どのような選択をとるのかは、その人の自由です。被害者でいることも、他者を責めることも、運命を呪うこともできます。自由です。ただし、別の選択肢をとることもできます。

 

 

 私はある時から、自分の身に起こった全てのことを受け入れることに決めました。いつまでも過去の出来事を思い返しては悪しき感情や思いを産み続けることに嫌気がさしていましたし、環境や他人を責めている自分も嫌でした。過去に縛られ、他者を責めるというループから抜け出さない限りは、真の平安は訪れないだろうと、直観でわかっていました。

 

 ただし、このように心の中で決心することと、実践することは、また別問題でした。当然、それまで長いこと続けてきた習慣は、そう簡単に変えられるものではありません。せっかく心に決めたのに、気づいたらまた同じことを繰り返して嫌になることもたくさんありました。今でも、完全にすべてを受け入れられているわけではありません。特に、不条理なことが起こった時などは、憤慨することもあります。けれど、いきなり完璧になることを目指すのではなく、ある程度は、人間なのだから弱い部分もある、くらいに柔軟に考えるようにしています。最初から完璧を目指そうとすると、できていない自分を責めたくなってしまうからです。

 

 

 

 完ぺきではないにしても、それまでの自分とは決別しようと思い、あきらめずに忍耐と訓練を続けてきた効果は、絶大でした。まず、他者を責めないようになったことで、恨みや怒りといった感情に支配されることが減り、とても楽になりました。恨みや怒りを抱いて生きることは、本当はとてもつらくて苦しいことです。

 

 理解しがたいような出来事が起こったり、到底受け入れがたいように感じられる人に出会った時でも、まず最初に、

 

私はこの出来事とこの人を愛します

 

と宣言するようにしています。その時点で、どんなに自分のエゴが拒絶していようが、とにかくこう宣言するのです。当然、宣言したからといっていきなりそれができるとは限りません。たくさんの葛藤も生じます。それでも、とにかく「愛します」という意思にすがりつくのです。どんな感情が沸き起こってこようとも、その意思だけは絶対に死守します。

 

 すると、不思議なことに、物事はそのように動いていくのです。最初は絶対にできないように思えたことでも、できるようになりますし、思ってもいなかったようなプロセスを経て、望む方向に導かれていったりします。自分が変わるだけでなく、相手が変わることもあります。環境が変わることもよくあります。助けてくれる人や情報がやってきたりもします。

 あらゆることがスムーズにいくとは限らず、落ち込むことや、希望を失いそうになることもありますが、とにかく、信じることさえやめなければ、天は裏切らないのだなあと思います。

 

 

心は自分が創るもの

 人の心の状態と、その人の健康状態には密接なつながりがあること。このことは、おそらく世の中の多くの人が知っていると思います。

 

 更に、人の心の状態が、その人の現実を創るということ。このことにも、最近は多くの人が気づき始めています。

 

 その人の心の状態が、その人の身に起こる出来事を創り出しているのではないかということには、物心ついた時からなんとなく感じてはいたものの、確信が持てないまま、ずっと過ごしていたように思います。確信が持てずにいたことで、私自身、様々な経験を経ていくうちに、たくさん心の重荷をしょい込み、怒りや不安、罪悪感、自己嫌悪感といったネガティブな感情をコントロールできないまま(というより、しようとしなかったというのが正しいかもしれません。感情は自分でコントロールできるのだということを、長い間信じていませんでしたし、努力を怠っていました)、そうした感情にのまれ、それに見合ったネガティヴな事象を引き寄せ続けていました。

 

 

 同じ世界をみていても、その人の心の状態によって、全く異なる見方をするものなのだなということをハッキリ認識したのは、高校生の時でした。

 まだ高校生活が始まって間もない頃、もう既に学校に来ることが難しくなり、時々来ては一時間も授業を受けないうちに教室を出てしまい、次の日からまたしばらく休む、ということを繰り返しているクラスメートがいました。その子は、学校に来ても特に誰と話すわけでもなく、ただ不安げな顔で周囲から隠れるようにして席に座っているのでした。地方の女子高で、クラスメートは今考えても心優しい、良い子達ばかりでした。その子に対してきつく当たったり、意地悪をしたりする子など一人もいませんでしたし、皆心の中で「この子は一体どうしたのだろう」と不思議には思っていたかもしれませんが、口に出すこともせず、ただそっと見守っていたように思います。

 その子は常に何かの恐怖に怯えていました。恐れや不安に圧倒され、自信もエネルギーも枯渇してしまっているように見えました。実際は、周囲の誰も攻撃などしないし(少なくとも学校では)、先生も級友達もその子には特に優しく接していたはずなのに。

 これはもしかして、この子が自身の内側で創り出している恐れなのではないだろうか。この子の心は、自分が創り出した大きな大きな恐れに支配されており、もはや自分でも制御できず、見えているあらゆる人や物事が恐れを通してしか見えなくなっているのではないだろうか。そんな風に感じました。その時はどうしてそのようになっているのか、よくわからなかったのですが、大人になってから思い返すと、彼女はそこに至るまでに、様々なトラウマを抱え込むような経験をしてきたのだろうと察せられます。元々の性格もあるでしょう。

 当時の私にはそうした背景はうっすらと予測することしかできませんでしたが、どのような事情があったにせよ、その子を見ていて思ったのは、恐れそのものを生み出しているのは、その人自身なのではないかということでした。家族でも友達でも先生でもなく、その子自身が、自分で、恐れを創り出し、自分が創った恐れによって圧倒され、支配され、制御できなくなっているということ。その時の私には、そのように感じられたのでした。

 

 心は自分が創り出すもの。そのことを、ハッキリと認識したのでした。

 

 

 更に、そうした心の状態が現実をも創り出しているということに確信を持つようになったのは、もっとずっと先のことです。

 

 

サイキック・アタック

 フラワーエッセンスは、人間のエネルギーフィールドに作用するものです。エネルギーは多くの人の目には見えませんが、肉眼で見えないだけであって、確実に存在しています。

 

 人の認識できる色彩の範囲は、時代と共に拡大していっている、という説があります。ある時代より前の絵画には、パステルカラーが一切出てこないそうです。それは、昔の人々は、パステルカラーを認識できていなかったからだといいます。

 

 一昔前より随分と、人々のエネルギーを感じる能力が高まってきているように思います。人類は進化と共に、色彩能力と同様、エネルギーを感じる能力がどんどん拡大されていくのかもしれません。最近作られているドラマや映画、アニメなども、霊的な世界や、精神世界、魂の世界を扱った作品が増えてきています。それだけ、人々の感じる能力や関心が高まってきているのだと思います。

 

 エネルギーの世界に関心が高まり、自分もその世界に足を踏み入れる際には、物理次元を渡り歩いていくのと同じように、道徳心を保ち、良心に従って行動することが大事です。自制心と謙虚さをもってエゴの声を制御すること、そして愛に基づいた選択をすること。これさえ守っていれば、あまり心配するようなことは起こりませんし、おかしな方向に進んでいくこともないかと思います

 

 また、自分をコントロールするのと同じくらい大切なのが、精神世界、霊的世界の仕事に携わる人達を冷静に観察する眼力を持つことです。悲しいことですが、サイキックな能力(霊能力)を使って、人を欺いたり、コントロールしたり、必要以上のお金儲けをしている人たちもたくさん存在します。そして、そうした人々の餌食になっている人も。現実世界と同じように、自分の身は自分で守らなければいけません。

 

 エネルギーを操って他人に害を与えたり、攻撃したり、また相手のエネルギーフィールドに侵入することを単純に面白がり「遊んで」いる人たちもいます。『自分が出したエネルギーは自分の元に返ってくる』というのは、宇宙の不変の法則なので、そうしたダークなエネルギーの使い方をしていれば、いずれその人の身にネガティブエネルギーが跳ね返ってくることになります。ですから、愛に基づかないエネルギーの使い方をして結果的に得することはないのですが、そういった人たちは一時の満足のために行動しているのでしょう。

 たまたま自分がそのようなサイキック・アタックのターゲットになってしまうこともあるので、ある程度用心したり、対処方法を知っておくことも必要かと思います。

 

 そもそも、ネガティブなエネルギーの使い方をしている人とは関わらない、距離を置くことは当然のことですが、常にエネルギー的なバリアーを張っておくことも大事です。バリアーの張り方には様々な方法がありますので、ご自身に合った方法を選べばよいかと思います。

 

 それでも、サイキック・アタックの被害に遭ってしまった場合。サイキック・フィールドで起こったことは、霊的な対処が必要になります。海塩やハーブ、天然石といった、エネルギーフィールドに作用するグッズを使ったり、もちろんエッセンスも浄化を助けてくれます。サイキック・アタックに一番お勧めなのは、アンジェリックの『Shamanic Extraction』です。

 先祖から引き継いできていると思われる、念や呪いのようなネガティブエネルギーがあるようであれば、『DNA Clearing 』や、『Ancestral Healing』などで一度大掃除をすることをお勧めします。

 また、祈りの力で癒しを求め、霊的なサポートを求める、神社やお寺、教会でお祓いしてもらったり、除霊や浄霊ができるヒーラーにクリアリングをお願いする、といった方法もあります。

 

 

 残念なことですが、霊的な能力があるからといって、必ずしも良心に基づいてその力を使っている人ばかりではないのです。そういう人々を見抜くこと、用心すること、自分を守ること、被害を受けたら対処すること、を念頭においておく。それと同時に、自分自身がそちらの側に堕ちていかないように常に戒める。こうしたことが、これから更に拡大していくと思われるエネルギー社会において、問われてくることのように思います。

 

 

復讐

 何年か前にテレビで、息子を殺人事件で亡くし、犯人に死刑を望んでいるという夫婦のドキュメンタリーを見たことがあります。長い時間をかけて死刑を求め続け、ようやく刑が執行されたその日。取材に来たカメラの前で母親が、暗い表情を浮かべて次のように言っていました。

 

「死刑が執行されれば、楽になれると思っていました。でも、今はただ虚しいだけ。心にぽっかり穴が空いたようです」

 

 

 日本では昔から、仇討ちの話が人気で、その代表的なのが「忠臣蔵」だと思います。かつては、親の仇を子供が討つことが公に認められていましたし、周囲がそれを応援することも多かったといいます。日本以外にも、「モンテ・クリスト伯」などの復讐を題材にした物語はいくつもありますし、復讐や仇討ちの概念は、人類全般に共通するものなのだろうと思います。

 

 自分を苦しめた人に、同じような苦しみを味わわせたい。その欲望が満たされた後、果たして人は癒されるのでしょうか。冒頭の母親の言葉が、そうとは限らないということを伝えているような気がします。

 

 実際、殺人のような大きな事件ではなくとも、自分が体験した出来事の中で、自分を傷つけた人が不幸な目にあったからといって、心が完全に満たされたということは一度もありません。誰かを憎んでいる間は、その人がどういう状態であろうと、何が起ころうと、心の中によどんだ感情がくすぶり続け、それが苦しみを引き起こし続けます。私たちが恨みや憎しみ、そしてそれが引き起こす苦しみから本当に自由になれるのは、自らの意思で、相手を赦すことができた時です。相手が変わらなくても、相変わらずの状況が続いていても、何も気づいていなくても、私が憎しみを捨てさえすれば、ずっと背負ってきた重荷から解放されるのです。

 

 それなら、傷つけた人が何も学ばないじゃないかと思うかもしれません。人が学ぶタイミングは、他人が決めることではなく、コントロールしようと思うこと自体がエゴです。私が思い知らせなくても、わざわざ手を汚さなくても、人智を超えた力がいつか働いて、人が自分の取った言動の結果を思い知らされる時は必ず来ます。それがいつなのかは、私たちのあずかり知らぬ領域です。まずは、相手に知らしめたいという欲を捨てることが、最初のステップです。

 

 

「修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか」

 

『ブッダのことば』より 中村元 訳 / 岩波書店

 

 

パワープレイ

 お客様からのご相談で多いものの1つが、人間関係のお悩みです。

 

 中でも、属している集団の中で、誰かとの関係がこじれてしまい、感情のもつれが生じて問題が複雑になっているケースをよく聞きます。

 この、「感情のもつれ」が生じているということは、もう既に問題そのものを客観視できなくなっている場合がほとんどです。相手も自分も、現実的な問題そのものより、自分の方が尊厳を傷つけられたという衝撃からくる怒りや悲しみ、恨み、復讐心といった感情にとらわれ、そこから抜け出せなくなっているのです。

 

 異性同士より、同性同士の方が、こうしたパワープレイに陥りやすいようです。ちなみに、他人だけでなく家族内でもこうしたパワープレイは起こりうるものですが、こちらも、同性同士の方が起こりやすいです。

 

 

 

 自分が今まさに、パワープレイに陥っていると気づいた場合。まずは、気づけたということに感謝をしてください。気づいた時点で、問題解決への道のりをかなり進んだことになります。中には、一生気づかないまま、不毛な感情的駆け引きにエネルギーを費やし続ける人だっているのです。

 

 その次に何をしたらいいのか。それは、その渦の中から抜け出すことです。

 

 それができないから悩んでいるんじゃない・・と言いたくなるのもわかります。ハッキリ言っておきますが、ドツボにはまっていればいる程、大変なエネルギーが必要になります。簡単にできることではありません。時間もかかると思います。

 けれど少なくとも、自分が心の底から、「こんなくだらないゲームから抜け出そう。この先も誰かを恨みながら人生を歩むのをやめよう」と決心をしなければ、ことは進みませんし、何も変わりません。この、決心をするということが、とてもとても大事なのです。そして大抵の場合、決心をすること自体が、大変難しいです。自尊心が邪魔をして、自分が引き下がるのではなく、相手をひれ伏したい欲求に駆られてしまうからです。

 

 感情の渦の中にはまってしまっている場合、そこから抜け出すには、感情レベルの上にまで自分を引き上げなければいけません。解決するには、今いる次元より高い次元からの癒しが必要なのです。マインドも解決を助けてはくれません。色々と頭で「考えて」いるだけでは、先に進めません。同じ所で行ったり来たりするだけでしょう。

 

 祈り、高次の存在のサポートもお願いしてください。人が愛に根差した決心をした時には、必ず助けがやってきます。

 

「私を助けてください。この感情に根差した無意味な争いから、私を引き離してください。この問題に、大きな愛のエネルギーを注いでください。私が赦し、赦され、あらゆる恨みや怒りから解放されますように。相手を変えたい、相手に私の痛みをわからせたいという欲望を、私が手放すことができますように。私の悲しみや苦しみが癒され、相手の心も癒され、お互いが憎しみではなく愛の関係で結ばれますように。この問題に携わるあらゆる人に祝福を与えてください。

 最後に、このレッスンを私に与えてくださったことに感謝をいたします。私はこの問題から多くを学び、成長することができました。ありがとうございます。感謝と共に手放します。」

 

 

 

 アンジェリックの、「Unconditional Forgiveness」や「Ho'oponopono」「Release」なども力になってくれると思います。毎日瞑想をして、自分を感情や頭のおしゃべりから解放する時間をとってください。感情や頭のおしゃべりばかりを聴いてしまっているなと感じたら、高い次元の声を聴くように意識をしてください。魂に響く声がきこえてくるはずです。

 

 

言葉の毒

 時々テレビなどに、「毒舌タレント」「毒舌芸人」なる人たちが登場し、しばらく面白がられては消えていきます。これまで、ただ毒舌だけを売りにして、長く人気を保つことができた人はいないように思います。一言で毒舌といっても、厳しい言葉の裏に愛が感じられる場合もあります。それとは違って、ただ誰かの悪口を言ったり、物事を罵倒する言葉を吐くだけの毒舌は、一時的にウケることがあっても、やがて飽きられ、本人もだんだん行き詰まっていくようにみえます。

 

 そういった芸能人や有名人に限らず、毒を吐いてばかりいる方々をみていると、次第に顔相や、纏う雰囲気も変わっていくのを感じます。言葉もエネルギーなので、口から出た毒によって、自分のオーラ層もどんどん汚れていくのでしょう。

 

 「呪詛」というのは、言葉の力でもって他人を呪うことです。言葉は、魔力を持ち得るほどパワフルなものなのです。エネルギーフィールドに、呪いからくるブロックがある場合は、本格的な浄化が必要な場合もあります。

 

 遠い昔、誰かからかけられた言葉に、長年苦しむこともあります。多くの場合、言った本人より、言われた方がいつまでも覚えています。そもそも、その言葉に執着し、手放さずにいるのは、言われた本人の意思がそうさせているからです。よく、「あの人があの時私に言ったことは、一生忘れない」といったことを言っている人がいますが、それは、その言葉によって今後も呪縛され続けることを自ら宣言しているようなものです。

 赦し、手放すことによって、言葉によって受けた心の傷は癒すことができます。本人が心の底から望みさえすれば。言った本人も忘れているような言葉をいつまでも引きずり、思い出しては怒りに燃え立たされるより、理解をもって赦し、愛と共に手放した方が、千倍楽です。人生のどこかでそれをやらない限り、残りの人生をずっと、言葉の毒に侵されたまま、恨みと共に生きることになります。

 何度も言いますが、この世で一番強いのは愛のエネルギーです。自分を苦しめてきた言葉に、今後も苦しみ続けたくなければ、愛の力で浄化するしかありません。憎しみが解決してくれることは絶対にありません。

 

 

 そもそも言葉の毒に侵されたくなかったら、毒々しい言葉を吐く人を見ない、聞かない、距離を置く。もし、不可抗力で言葉の毒を浴びてしまったとしても、それを自分の中にとどめておかない。その人が吐いた言葉は、その人の内側を反映したものです。たとえ自分に向けられたとしても、個人的に受け取らないことです。自分はたまたまそこにいただけです。

 

 

霊性の時代

 人類が地球に現われて以来、何十万年もの歴史の中で、私たちは長い間、飢餓との闘いを強いられてきました。今のような飽食の時代になったのは、ほんの最近のことです。現代の人々の主な死因は心臓疾患や癌といった病気ですが、かつては飢えや伝染病、ケガ、そして誰かに殺されることが主な死因でした。

 こうした時代が長い間続いてきたために、私たちの体(脳)は、どうしたら飢餓から生き延びられるか、どうしたら敵から身を守れるかといった、動物的な反応を司る分野が大きく発達しました。人がカロリーの高い食べ物を欲する傾向があるのは、かつては食べ物が常にあったわけではないので、できるだけエネルギーをためておく必要があったからです。蛇や雷の音に敏感に反応し、警戒したり恐怖心が芽生えるのも、生存本能が働くからです。"Fight or Flight"(闘争か逃走か)という状況下では、こうした危機管理能力の高い人間ほど生き延びる確率が高くなりました。

 

 時代が変わり、環境が大きく変わってはいても、私たちの基本的な肉体構造はほとんど変わっていません。だから、もうそんなにエネルギーをためておく必要性がないのに、脂肪分の多い食事に魅かれてたくさん食べてしまったり、他人に対して必要以上に警戒心を抱いてしまいます。人は恐怖心を感じると、脳にアラームが鳴り、戦闘モードがオンになります。その際、理性を司る部分は後ろに引っ込んでしまうため、落ち着いて考えて行動することが難しくなります。

 ストレスをため込んでいる時も、脳はそのような状態になります。理性が働きにくくなるのです。視野が狭くなり、自分を取り巻く状況を客観的に眺めるのが難しくなり、怒りやすくなります。人間が危機的状況に置かれた際、優先されるのは、落ち着いて理性で考える能力ではなく、その場を生き延びるために瞬時に動く能力です。攻撃的になったり、逃走本能が働いたり。

 

 私たちが、理性的になることができず、不安などの感情が優位になっているように感じる時、まずはストレスを逃し、リラックスすることが大切なのは、こういったメカニズムがあるからです。

 

 

 

 

 それから、大事なのはもう一つ。私たちは、肉体だけの存在ではないということに気づくことです。私たちは、肉体と同時に霊体ももっています(2つがハッキリ分かれているわけではなく、繋がっています)。私たちが普段認識しているのは、肉体の方が多いのではないかと思います。物理次元で生活しているのですから、当然ではあります。ただ、人間が肉体だけの存在で、肉体に全てを支配されていると考えてしまうと、行き詰まることになります。私たちは、霊体、つまり魂の存在でもあるわけで、こっちが本来の姿だからです。魂の声をきかずに、肉体次元で判断してばかりいると、本来の目的や望みと合わなくなり、様々なことがうまくいかなくなります。

 

 行き詰まった感じがしたり、同じパターンを繰り返していたり、ネガティブな感情ばかりが沸き上がってくるような時は、一度頭を空っぽにして、気持ちを落ち着かせ、魂の声をきいてみることをお勧めします。魂の声がきこえないというのは、きっと忙しすぎたり、頭が特定の考えでいっぱいだったり(とらわれ)、感情的になり過ぎていたりして、雑音をきいてしまっているのです。魂とのつながりがなくなることは絶対にありません。

 

 そして普段から、魂を前面に出す、ということを意識的にしていくこと。霊性の時代に突入した今、そうすることが比較的容易になってきています。肉体、動物的な本能に支配され、それが優位である人の方が生き延びやすかった時代は、終息に近づいてきています。こうした流れは、今後加速していくでしょう。エネルギーや、霊的な世界への関心も、年々高まってきています。物理次元にばかり目を向けるのではなく、魂レベルで感じ、判断し、動いていく。そんな生き方が時流に合った生き方になってきています。

 

 

愛を求める行為

 人の行動は、大きなくくりでいうと、『愛を表現する行動』か、『愛を求める行動』に分けられると思います。犬をなでる、優しい言葉をかける、誰かを笑わせる、体をいたわる・・こういった行動は、『愛を表現する行動』です。映画を観て泣く、というのも、愛の表現になると思います。

 

 誰かに怒りをぶつける、どなる、ねたむ、恨む、ひがむ、憎む・・・こういった行動は、大元では、愛を求めているから起こっていることです。

 

 よく、人とぶつかって、キレたりどなったりしている人がいます。そういう場面をみると私は、「ああこの人は、愛を求めているんだな」と思います。その人は恐らく、自分が大切にされなかったように感じて、怒りが生じているのです。

 

 仲違いしている人達の様子をみても、結局は、両者とも愛を求めているだけなんだなと思います。お互いが、お互いから、大事にされていないと感じてしまい、悲しくなったり、怒りが湧いてきたりしているのです。

 その証拠に、どちらか一方が、「ごめんなさい。私が悪かったわ」と一言発しただけで、そこに愛が流れ、怒りが消え、仲が戻ったりします。もしくは、何らかの形で「あなたのことを大切に思っている」という思いが伝わったことで、雪解けが起こることもあります。解決するには、愛が必要なのです。

 

 SNSなどでの中傷が社会問題となっていますが、会ったこともない人に対して辛辣な言葉を吐くという行為も、愛が足りていない、愛がもっと欲しいと感じていることから生じていると思います。内側が愛で満たされている人は、他人に意地悪なことをしたり言ったりなどしません。愛で満たされていれば、愛を表現する行動にエネルギーを注ぐでしょう。愛の大きさと、愛の強さ、何かを変えるには愛するしかないということを、体感として理解したなら、愛を求めて誰かを傷つけるより、愛を表現する方を選ぶはずです。

 

 

 そうはいっても人間は人間。そんなに常に完璧に愛だけを表現できるとも限りません。うまく愛を表現できなかったからといって、自分を責めずに、そんな完璧ではない自分を愛してあげてください。自分を責めている間は、内側から愛が広がっていきません。萎縮してしまいます。そうすると結局、他人に優しくすることも難しくなるのです。

 

 最近殺伐としているなと感じたら、温かいお風呂にお気に入りのバスソルトを入れてゆっくり浸かるとか、好きなドラマや映画をみるとか、お笑いをみてたくさん笑うとか、大好きな食べ物を食べるとかして、自分に優しくしてあげてください。バランスが大事です。「してあげたい」「やらなきゃ」という思いだけが先行していても、エネルギーが枯渇していたら動けないのです。

 

 どうしても体が動かなかったら、少し休んで、パワーチャージして、自分を大切にして、それから愛を表現してみてください。

 

 

 愛を感じることができずに、愛してもらいたくて、ネガティブな行動に走っている人たちに対して、非難することだけではなく、その人がなぜそのような行為をするのか、背景にも目が向けられ、理解するということにもっと力が注がれるといいなと思います。先日、19歳の少年が人を刺して逃亡するという事件がありました。彼は捕まったあと、「自分は愛されていないと感じていた」と述べたそうです。

 世の中で、凄惨な事件を起こした人の生い立ちをきくと、大概は、聞くだけで身も凍るような、愛に飢えた幼少期を送っています。どこかで、たっぷりの愛が注がれていれば、ハートがシャットアウトすることもなかったかもしれません。もちろん、人を傷つける行為は認められないことですが、ただ責めて罰しているだけでは、癒しが起こることは難しいのではないかと思います。どこかの段階で癒しと浄化が起こらなければ、次にまた同じことが繰り返されることになります。

 

 

 私たちが、お互いを理解して、赦し合い、罰ではなく愛で解決できるようになる日が、いつか来ると思っています。

 

捨てること

 宗教やスピリチュアルを謳う本は巷に溢れていますが、ざっと見ただけでも、その多くが、いかに「手に入れる」かということにフォーカスしているなと感じます。家、お金、財産、仕事、名声、良い人間関係、等々。

 

 何かを得たからといって人は満足するのかというと、実際は、手に入れた瞬間に「もっと」という欲求が生じます。なので、物質的なものや、数字で計れるような何かを得ることをゴールにしているうちは、本当の意味で満たされることはありません。そもそも、手に入れたものや力の大きさで幸せが計れるなら、巨万の富を築いた人や、大きな権力を握った人ほど幸せということになりますが、そうではないことは誰がみても明らかです。

 

 イエス様もお釈迦様も、何かを手に入れることではなく、「捨てる」こと、「手放す」ことを繰り返し繰り返し教え諭しています。物理的な所有物を捨てるということではなく、自分の心の中のお荷物を捨てること。今の苦しみを生み出している元となる要素を突き止め、それを手放すこと。何かにしがみついているうちは、苦しみから逃れられないということを、様々な事例を挙げて説明しています。

 

 スピリチュアルな世界にいる人たちが全て真理を悟っているわけではないので、情報を取り入れる際は、どの段階にいる人がそれを書いている(または語っている)のかということには、いつも注意を払います。

 

 基本的に、最初に書いたように、何かを「手に入れる」ことを目標にしている人や、語っている内容の多くが他者への批判に終始している人は、その人自身がまだまだ捨てることがある段階なのだろうなと思います。真に目覚めた人ほど、何かを得ることに執着がなくなるものですし、この世に善も悪も正しいも間違いもないという悟りに達しているので、他人を批判することにエネルギーを注いだりしません。

 

 もちろん、この世で生活していく以上は、物質的な所有なくしては生きてはいけませんから、それ自体を否定するつもりはありません。けれど、所有自体をゴールにして生きていくと、かえって満たされないということに気づいたので、もう何かを得ることを最終目的にしようとは思わなくなりました。

 

 何かを捨てることは、決断するまでが大変で、必ず抵抗が生じます。けれど、いざ捨ててみると、その分縛りから解放されるので、自分の領域が広がった感覚が得られます。自由で、軽い感じになっていきます。まだまだ捨てきれていないものがたくさんありますが、根気強く、やっていこうと思います。

 

火を消すのは自分

 キャンプに行って、火を起こす時のことを考えてみてください。火が弱いなと感じたら、薪をくべます。反対に、強すぎるなと思ったら、くべる量を減らします。火を強くするか弱くするかは、私たちの選択にかかっています。

 

 感情についても、同じことがいえます。例えば何かに対して怒りが湧いてきた時。それは起こった出来事に対して、個人的な反応が起こることによって生じています。

 

 その湧いてきた怒りを、そのまま燃え上がらせるのか、それとも鎮火させるのか。それを選ぶのは、私たちです。選んでいないと思うかもしれませんが、選んでいるのです。

 

 怒りに限らず、あらゆる感情が常に沸いては消え、沸いては消えていきます。人間である限り、感情から完全に解放されることはないでしょう。感情が肥大化し、そこに飲み込まれて圧倒されたようになることもあります。そういったことが起こったとしても(それが良いとか悪いということではありません)、その状態を維持するのか、そこからさっさと退出するのか。どちらを選ぶのか、私たちが決めています。

 

 沸いてきた感情に逐一翻弄されることなく、サッと流す。これは訓練次第で、できるようになります。

 

 そのためにはまず、感情に対して意識的になること、そして客観視することが重要です。感情は、コントロール不能なモンスターではありません。主導権は、自分が握っています。コントロールできるものなのです。

 

 心を静め、フラットな状態にさせるために、瞑想は効果的です。瞑想の習慣がつくと、感情を冷静に眺められるようになります。フラワーエッセンスも、感情を客観視するのを助けてくれます。浄化のスピードも速まります。

 

 感情に対して落ち着いて向き合えるようになってきたら、今度はその出所に目を向ける段階に進みます。この感情は、私の「何」に反応して生じているのか。繰り返し沸き起こってくる感情が、いつも似たようなシチュエーションで生じていることに気づいたりします。

 

 それがわかったら、今度は手放しです。繰り返し同じような状況で、同じような感情に苛まれ、苦しい思いをしたくないのだったら、その原因を手放せばいいのです。大抵の場合、この段階で葛藤が生じます。どこかではわかっているのだけれど、なかなか決心がつかない状態です。もしかしたら、抱えている問題次第では、何年もこの段階で足踏みしているかもしれません。意識に深く根付いている信念ほど、手放すのにエネルギーがいります。あまりにも長い間自分の中にあった場合、自分が特定の固定観念を抱いていることにすら気づかないことが多いです。気づかないくらい当たり前になってしまって、一体化しているのです。

 

 

 こうしたプロセスは、何度も何度も、お掃除が終わらない限りは延々と続きます。いきなり大浄化が起こって、一気に楽になるなんていうことはまずありません。一つずつ、根気強く、やっていかなければいけません。忍耐、忍耐、忍耐。一歩進んではまた戻り、の繰り返しです。がっかりすることもたくさんあるかもしれません。でも、あきらめずに、少しずつでもお掃除を進めていけば、感情の奴隷でいるよりもはるかに楽になれるでしょう。

 

 

知っている悪魔の方がまし?

 "Better the devil you know than the devil you don't" 

 

 英語のラジオなどを聴いていると時々耳にする表現です。日本語で言うと、「知らない悪魔より、知っている悪魔の方がまし」といった意味です。

 

 人が変わるためには、強い意思とエネルギーが必要という話は何度もしてきました。たとえ現状にちっとも満足していなかったとしても、何が待ち受けているかわからない変革を起こすより、今の状況に安住することを、人は選びがちです。それは何かが自分の足を引っ張っているからなのですが、この「何か」というのを、人間のマインドは簡単に、他人や置かれた環境のせいにします。こんな環境で育ったから、親が反対しているから、経験がないから、お金がないから、パートナーがゆるしてくれないから、時間がないから、自分には能力がないから、周りに何か言われそうだから、どうせ失敗するから、誰もやっていないから、etc,etc...

 

 なんだかんだで頭が納得する理由を見つけて、それを自分に言い聞かせる。けれど心の奥底では、今の状態から脱却することを望んでいる。だからずっとモヤモヤした違和感があるし、どこか息苦しい、自由じゃない感じがするし、「私」が殺されているような気がするのです。

 

 それでもやはり、不安や疑心の方が勝っていると、なかなか最初の一歩が踏み出せないものです。

 

 となると、まず最初に取り組むべきことは、自分の恐怖心と向き合うことです。私は何を恐れているのか。何を失うことが怖いのか。客観的に見えてくると、恐怖心が薄れていきますし、行動を起こしやすくなります。

 

 肉親やパートナー(友人や先生、仕事関係の人も)ともうすでにうまくいかなくなっていて、自分らしく生きるためには物理的な距離を置いた方が良いことを心のどこかではわかっているのだけれど、なぜか一緒にいることを選んでしまっている方は、本当にたくさんいらっしゃいます。

 

 様々な事情もあることでしょう。けれど、たとえ一時経済的に苦しくなったとしても、多少孤独になるとしても、周りであれこれ言う人がいたとしても、この先もずっと窮屈で縛られた生活を続けるよりは、自由で、自分らしく生きられる方が千倍ましではないでしょうか。

 

 自分らしく生きる決心をした人は、宇宙がサポートしてくれます。案外、あれこれ考えるより思い切って行動を起こしてみると、考えていたような障害は起こらなかったりします。抱いていた恐怖は、実は幻で、本当は恐れを恐れていただけだったということに、行動を起こしてみると気づくものです。

 

 人の不安につけこんで、他人の心をコントロールするのが上手なタイプの人もいます。お互い無意識でコントロールをする・される関係に陥っている場合もあります(こちらの方が多いかもしれません)。いずれにしても、そこから脱却したいと本気で望んでいるのなら、とにかく何かしらのアクションを起こしてみることです。恐れは幻です。具体的に動いていると、その事実がみえてきます。

 

 

『どんなに高い代償を払っても、自由を手放してはいけない』。

 

 中世の昔から高い自治制を保っていた、イタリアのとある都市国家の広場に刻まれている言葉です。何を失おうとも、自由ほど尊いものはありません。物理的な環境など、宇宙が面倒をみてくれます。心の自由、魂の自由を感じずに生きるのは本当につらいことです。そこから脱却することは、できないと思い込んでいるだけで、本当はいつでもできることなのです。

 

ヒマラヤの女性から学ぶこと

 小さい頃から、自分とは全く異なる生活圏に住み、全く異なる生活を送る人々の様子を見たり聞いたりするのが好きでした。

 

 今は動画で簡単に地球の反対側にいる人々の生活の様子などが見られるようになり、とても興味を惹かれます。特に最近気になっているのが、ヒマラヤの麓の山々で、過酷な環境の中でも逞しく生きている人々の動画です。電気やガス、水道といった設備はなく、ほとんど自給自足に近い生活を送るそれらの人々の暮らしは、恐らく何百年も昔からほとんど変わらないのではないかと思われるくらい、素朴で自然と一体化したものです。小さい子供も水くみや家畜の世話、食事の支度などを積極的に手伝い、嫌そうなそぶりさえ見せません。生きるため、生活するために自分が動く、つまり働くということが、当たり前に受け入れられているように感じます。こういうごくシンプルな生活スタイルを目にすると、文明化が進んだ社会が、あまりにもいろいろなことが複雑になっているように思えてきます。きっとその分、考えることや不満に思うことが増えてしまうのだろうなとも思います。

 

 彼らの生活を映した動画を見ながら、文明って何だろうと考える日々を送っていた私は、ある時、ある動画に出てくる一人の女性に目が留まりました。その女性は、一年前に夫をなくし、近所に家一軒見当たらないような山奥の小さな小屋で、10歳くらいの男の子と、赤ん坊一人を抱えながら生活しているのでした。当然電気ガス水道といったインフラは全く整っておらず、住んでいる小屋も、嵐が来たら吹き飛ばされてしまいそうなくらい頼りなく見えます。家の隣に小さな畑があるのですが、人手が足りないためか、作物も十分に育っていません。食べるものがあまりないようで、ある時など、お鍋の底にこびりついてカピカピになった、わずかなおかゆの残りを息子に食べさせていました。暖を取るための手段もなく、恐らく大変に寒いと思われる中で、ボロボロになった布を何枚も赤ん坊に巻き付けて、寒さから守ってあげているのでした。

 

 文明化社会で育ってきた立場で見れば、普通は「貧しさ」や「虚しさ」といった視点でこの女性を見てしまうと思います。ところが彼女自身は、いつも大変穏やかな表情で、不思議と満ち足りた様子でいるのです。食べ物も、自分は食べずに子供にあげているので、ガリガリに痩せています。夫を病気で亡くしているので、この先も恐らく一人で子供を育てていかなければいけないでしょう。そうした状況でも、彼女からはまるで悲壮感というものが感じられないのです。それどころか、なけなしの食事を子供に与えている時の慈愛に満ちた表情や、赤ん坊を片手に抱えながら鍬で畑を耕す時の笑顔からは、至福さえ伝わってきます。一体このような状況で、なぜ彼女は幸せに満ちていられるのだろう。なぜ笑顔でいられるのだろう。物質的価値観にどっぷりと浸かった視点で見てしまうと、彼女の内なる幸福は信じられないかもしれません。

 

 この動画はシリーズのようになっていて、実はその後の彼女の様子が記録されています。それを見ると、更に興味深いことになっていきます。この動画を撮影した人や、それを見た人々が、彼女を助けたいという気持ちになり、世界各国から次々と寄付が集まったのです。お金だけでなく、あちこちから人材も集まるようになり、あれよあれよという間に、あの今にも倒れそうだった彼女の家は立派に改築され、水道も引かれ、更に遠くにいっていた一番上の息子も呼び戻すことができました。

 

 私はこの様子をみて、彼女の内なる状態と釣り合っていなかった現実が、ようやく釣り合ったのだなと思いました。

 

 ただし当の本人は、家がボロボロだった時と、立派に改築された後とで、何ら変わりがない様子なのが印象的でした。きっと彼女は、貧しいままの状態でいたとしても、常に笑顔でいたことでしょう。内なる至福に満ちている人は、周囲の現象などあまり関係ないのかもしれません。

 

 

 

次の段階

 アンジェリックエッセンスには、説明だけきいていると不思議に感じるものがいくつかあります。『The Next Level』(次のレベル)というエッセンスは、そのうちの一つです。エッセンスの解説は以下の通りです↓

 

『The Next Level』

とても高いバイブレーションのエッセンス。次の段階の意識や存在のエネルギーのようです。現存するエネルギーより高いエネルギーで、私たちがより高次の意識とバイブレーションへ進化することを助けてくれます。 私(ルース)がこのエッセンスを初めてつくって試したところ、エネルギーに満たされ充電されました。エネルギーを見たり感じたりする私の能力が高められたようです。このエッセンスは、その人のバイブレーションを引き上げるのにぴったりです。

~(株)ネイチャーワールドのホームページより抜粋~

 

 作り手のルースさん自身も、エッセンスが出来上がってからでないと、そのエッセンスのバイブ

レーションがどんなものなのか、わからないようです。

 

 

 私がこのエッセンスを試したくなるのは、「自分では次の目標が明確にわかっていて、そこにいきたいのだけれど、どうしてもそれまでの習慣や、過去の記憶に足を引っ張られてしまい、なかなか次の段階に進めずにいる時」です。頭ではわかっているのだけれど、現実的になかなか動きだせずにいる、そんな停滞したような状態です。そんな時は、まずは自分のバイブレーションを上げてしまうのが手っ取り早いです。様々な方法があると思いますが、私はこのエッセンスの力(高次の力)を借りて、エネルギーを高めてもらいます。そうすると、高まったエネルギーフィールドにそぐわない、古いエネルギーが自然と去っていきます。

 

 人間は常に内なる成長を続けていく存在です。何かを学んだからといって、それで終了ということはなく、次から次へと課題がやってきます。一つの学びが完了しても、また次の段階へ進むための課題が目の前に現われます。ずっと成長し続けなければいけないのです。

 

 成長の過程で障害となるのは、それまで継続し続けてきた習慣(物理的な習慣に限らず、思い癖や考え方のパターン)や、過去の経験です。今までこうだったから、これからもこうなる。過去にできなかったのだから、今後も無理だろう。人間は自然とこのような、過去に引っ張られた考え方をしてしまいます。過去を称賛しているわけではなくても、です。これまでやったことがないことにチャレンジすることや、それまでの自分とは違う自分になることが怖かったり、上手くいかなかったときのことを考えてしまい、ひるんでしまうのです。疑心と恐れというエゴの罠にはまってしまっている状態です。

 

 『The Next Level』は、エネルギーが先にグンと引き上げられ、とりあえずそういった頭の中のゴチャゴチャしたおしゃべりが吹っ飛ばされていくような感覚があります。ただし、このエッセンスの恩恵を深く受けるためには、その人本人の「変わりたい」という強い決意が必要不可欠かと思います。自分が変わるためには、時には勇気のいる行動をしなければいけないこともありますし、それまでにこだわっていた何かを捨てなければいけないこともあります。そんな時、それまでと変わらない世界に安住し、過去と同じ自分でいることは、一種の安心感を得られる場合もあります。変わることよりも、過去と同じ状態を選んでしまうのは、この見せかけの安心感に心を引っ張られ、「このままでいいんだ」と自分に言い聞かせている時です。

 

 恐れを払拭するくらいの強い意思を持った時、このエッセンスは、望む方向に一気に導いてくれます。迷いがなくなります。そして、それまでどうしてもマインドに引っ張られてうまくいかなかったことが、フッと楽にできるようになったりします。

 

 高次の存在は、魂の成長を心から望む人に対しては、協力を惜しみません。「求めよ、さらば与えられん」です。その望みが高い志からくるものであればあるほど、強力なサポートがやってきます。

 

コロナ禍で役に立ってくれそうなエッセンス

 思っていた以上にコロナはしぶとく、閉そく感が靄のように私たちを覆っています。私たち個人個人で置かれている状況は異なるでしょうが、人々の意識のフィールドは、深い部分でつながっています。いくら個人的な生活が守られていようと、周囲の人々や集団(地域、国家、地球)に蔓延する鬱屈したエネルギーの影響は、どうしても受けてしまうことでしょう。

 

 このように、世の中全体に不安や閉そく感、あきらめ、怒りといった感情が蔓延している時、私たちは無防備でいると、簡単にそれらの感情にのまれてしまいます。

 

 少し冷静に自分のエネルギーフィールドを眺めてみてください。今そこをネガティブな感情が覆っているとしたら、それはどこからくるものでしょうか。自分自身が置かれている状況から(に反応して)くるものなのか、それとも周囲や世の中全体を覆っている集団意識の影響を受けているものなのか。前者であれば、粛々と自分のなすべきことをこなしていき、状況を好転させる努力をしていけば良いだけです。もし後者であるならば、これ以上「無駄に」外からくるエネルギーの影響を受けている必要はないのではないでしょうか。もちろん、それらの感情にみんなと一緒にどっぷり浸りたい、と望んでいるのなら別ですが。

 

 自分のエネルギーフィールドの中で、どれが自分のもので、どれが自分のものではないのか、客観的に眺める訓練をしておくと、周囲で何が起ころうと、どんなに世の中に慟哭が渦巻いていようと、自分以外の人々の感情に必要以上にとらわれることなく、淡々と流していくことができます。エネルギーに敏感なタイプだからといって、常に誰かのネガティブな念や感情をスポンジのように吸収し、それに翻弄され、具合すら悪くなる日々を繰り返していく必要はないのです。全てはチョイスです。自分はどう生きたいのか。敏感体質だから弱い自分でいるのか。敏感体質だけれども、自分の領域はきちんと守りながら確固たる「私」でいるのか。選択しているのはその人自身です。

 

 まずは、もし今特定の感情にのまれているとしたら、その感情を流す練習をしてみてください。感情もエネルギーです。流動的で、常に変化しています。本当は、手放したかったらいつでも手放せるものなのです。特定の感情にしがみついたり、溺れていたりする時には、そうした状況を選んでいるのは自分自身だということを認めてください(誰か他に強要している人がいるでしょうか)。感情に溺れたくなかったら、手放せば良いのです。ただそう決断するだけです。そして具体的に動いてください。深呼吸をしたり、お風呂に入ったり、瞑想をしたり、自然の中を歩いてみたり、芸術に触れてみたり。

 

 感情の渦からとりあえず脱却することができたら、次にその感情はどこからきたのか、冷静に見つめてみてください。感情は必ず、発生源があります。自分の特定,の「思い」が発生源である場合。きっと自分は、何かに期待をしているか、何かを失うのが怖いか、自分を信じることができていないのです。理想通りにいかない現実に反応して、怒りや悲しみが生じているのです。

 

 自分以外の感情を拾ってしまっている場合。とにかくその感情にとらわれず、せっせと流していきましょう。特に今のような状況下では、常に自分のエネルギーフィールドを守る意識を保っていた方が良いです。あちこちに不満や慟哭が渦巻いていますから。自分以外のエネルギーは、自分の中に取り入れない。"Go Away!!"と心の中で叫んで追い払ってください。人間の意思と感情だったら、意思の方が強いのです。

 

 

 このような時に助けとなってくれそうなエッセンスをいくつか挙げてみます。

 

『エンジェルソード』(オーストラリアンブッシュ)

 自分にとって何が真実で、何が真実でないか、判断する明晰さをもたらしてくれます。様々な混乱や間違った情報の渦の中で、自分にとっての正しい情報を見極めることを助けてくれます。また、オーラに穴が開いてしまった時、そこに入ってきたエネルギーをカットしてくれます。

 

『フリンジドバイオレット』(オーストラリアンブッシュ)

 ショックやアクシデントがあった時に空いてしまったオーラの修復をしてくれます。過去にトラウマ経験があるような場合、これをとるのがお勧めです。オーラに穴が空いていると、そこから簡単にネガティブエネルギーが入ってきてしまいます。

 

『ジニア』(パワーオブフラワー)

 人生に喜びのエネルギーを。人生が停滞しているように感じる時や、人生を深刻にとり過ぎてしまっているような時に。緊張をほぐし、幸福感を高め、生きる活力を取り戻し、軽やかな希望と喜びの感覚をもたらしてくれます。

 

『Purification』(アンジェリック)

 浄化のエッセンス。日々様々なエネルギーに接し、その都度疲弊してしまうような方にお勧めです。一日の終わりだけでなく、朝起きた時や日中にもこまめにとると、望まないエネルギーに翻弄されることなく、一日を軽やかに過ごすことができます。

 

『Creating Healthy Boundaries』(アンジェリック)

 周囲との境界線を保つ。これを飲んでいると、必要以上に他人の影響を受けることなく、「自分」を保つことができます。周囲に苦手な人がいる場合や、常に他人の顔色を窺ってしまうような方にお勧めです。

 

『Protection』(アンジェリック)

守りのエネルギー。ネガティブなものから自分を守ってくれます。

 

 

春先の決断

 だいぶ春らしくなってきました。春を学年の区切りとしている日本は、春が切り替えの時期であることを昔から感じ取ってきたのでしょうか。

 毎年節分を皮切りに、空気感が変わっていくのを体感してきました。本格的な春を迎える前のこの時期に、新しい一年に古いものを持ち越さないよう、個人的に”清算”を行う方も多いようです。春先は、気づきや浄化が起こりやすい時期です。具体的な行動に結びつけられたら、変革と軌道修正が一気に進むことでしょう。

 

 問題の多い娘の部活は、この半年の間で3人もの退部者が出ているのですが(その他休部者が1名)、先日私が用事で娘の中学校を訪れた際、辞めた3人の子のうちの1人が、私の姿を見つけてわざわざ声をかけてきてくれました。「部活辞めました!」とハッキリした声で伝えたその表情は、生き生きと輝いていました。思わず私も、

 

「そうなのね。おめでとう!」

 

 と言っていました。一般的には、部活を辞めたということはネガティブに取られることなのかもしれませんが、私は様々な事情を知っているので、勇気を出して辞める選択をしたその子の決断力を褒めてあげたかったのです。部活を続けるのが良いとか辞めるのが良いとかいう問題ではなく、この場合、周囲の声に惑わされず、心の声に従って、自分の信じる道を選んだことが素晴らしいと思いました。辞めてスッキリした、何かが取れました、と笑顔で話すその子の表情は、本当に明るく見えました。きっと、これから希望に満ちた新しい道が用意されていることでしょう。

 

 

 世の中が変革期を迎えている中、これまでの古い体制が、今という時代と今の子供達に合わなくなっているという事態は、様々な分野で起こっていることです。誰かが勇気を出して声を上げたり、行動を起こすことで、世の中の人々の意識が喚起され、気づきが促されていきます。そうすることで、社会が動き、システムが変わり、常識が変わっていきます。

 

 変化が起こる際には、必ず抵抗が生じます。個人的に変革を起こそうとした時に、何かしらの妨害が入るのは、ごく自然なことです。それは内なる声だったり、物理的な障害だったり、周囲の意見だったりすることでしょう。けれど一番大きな抵抗は、自分の中にある恐れであることがほとんどです。自分がこの決断をしたら、何かを失うかもしれない。周りから攻撃されるかもしれない。そんな恐れが根底にあるものです。

 

 変化を起こすためには、まずは内なる恐れに打ち勝たなくてはならないため、勇気と決断力とエネルギーがいります。私は、強い意志でもって行動を起こす人を見ると、心からエールを送りたくなりますし、常々そういう人を応援しています。内なる恐れに打ち勝つことほど困難なことはありませんし、更に行動に繋げるにはもう一歩進む必要がありますから、パワーがいります。

 世の中を変えてきたのは、こうした1つ1つの勇気と行動であり、これからもそうであろうと思います。人間の行動には波及効果がありますから、どこかで変化が起こると、更にその変化の波が広がっていきます。

 

 誰かの勇気ある決断と行動を見ると、嬉しくなります。

 

繊細な人の宿命

 エネルギーに敏感な方は、知らず知らずのうちに自分がスポンジのようになってしまい、種々雑多なものを一度に吸収し、どっと疲れたり、他のものの影響を強く受けて自分を見失ったり、ということが起こりがちです。そういう方ほど、本当はきちんと意識してバリアーを張り、他人との境界線をきちんと保つ必要があるのですが、なかなかそれが上手くいかないことが多いようです。

 というのも、エネルギーに敏感体質の人(エンパスとも言う。最近はHSP=Highly Sensitive Personなどという表現も出てきました)は、心優しく繊細なタイプが多く、他者に共感し、痛みを分かち合おうとする気質が生まれつき備わっているからなのです。それは、その人の持って生まれた能力でもあり、宿命でもあるのですが、だからといっていつも無防備でいては、自分がやられてしまいます。

 

 そういう方は通常、他者の痛みを感じ取り、それを癒したり、愛に変換する使命があって、この世にやってきているのですが、その使命を果たす前に自分が倒れてしまっては、道半ばで折れてしまうことになります。繊細で敏感な方は、持って生まれた繊細さを活かすためにも、強くなければいけません。繊細で敏感だから弱い、と消極的になるのではなく、繊細で敏感であるけれど強い、という強気の状態に持っていくことが大切かと思います。そのためには、ある程度意思を強く持つことと、自分を守る努力が必要です。

 

 繊細で敏感な人が、強さを手に入れたら、ブレることなく、他者をサポートすることができます。持って生まれた能力を活かしながら、自分の使命を果たすことができます。

 そのためにも、一度自分のエネルギーフィールドがどうなっているのか、チェックしてみた方が良いかもしれません。自分以外のエネルギーに浸食されていないか、誰かに自分を乗っ取られていないか、ちゃんと自分の軸を保てているかどうか。芯を保っていないと、敏感なだけに、簡単に他人のエネルギーを自分のフィールドに招き入れてしまうことになります。

 エッセンスにも、バリアーを張ってくれるものや、邪悪なエネルギーを跳ね返してくれるものがいろいろあります。アンジェリックで人気なのが、「Creative Healthy Boundaries(健全な境界線を引く)」です。「Angelic Lance(天使の槍)」や「Archangel Michael(大天使ミカエル)」もお勧めです。

 それから、定期的に(できれば毎日)自分のエネルギーフィールドをお掃除する努力をした方が良いです。海塩を入れたお風呂に浸かるのが簡単で効果的ですが、その他にもパワーストーンやセージといった浄化グッズの力を借りるのも手です。私はもちろん、エッセンスの力にも頼ります。それから、祈りの力も大変強力です。

 

 私自身、最初から自分の軸を保てていたわけでも、他人との境界線を意識していたわけでもありません。特に思春期辺りからは、何が自分で何が自分のものではないのか、よくわからなくなって様々なものの影響を強く受け過ぎてしまい、混乱したり、不安定になったり、周囲に引っ張られて流されて・・ということをずっと繰り返してきました。長い長い漂流生活を経て、今やっと地に足を着けて自分の意思をきちんと保てるようになってきました。

 

 思春期というのは、特にバリアーが薄くなるのか、急速に他人、それも同世代の人の影響力を強く受けやすくなるようです。この時期に自分をしっかり保つというのは、特に敏感体質の人には難しいのかもしれません。それでも、自分の経験からすると、どこかで自分の芯というか、信じる気持ちがコアの部分に保てていれば、多少周囲に流されたり、自分を見失ったりしたとしても、再び戻ってくる時期が来ると思います。

 この、思春期特有の流される時期に、いくら周りの大人達がうるさく言ったとしても、本人だってどうしようもなくてそうなっているのだから、うるさい、と思われても仕方ないかもしれません。おそらく人間は、一度自分を見失う経験をすることで、本当の自分というものを発見していくのではないでしょうか。

 

 ですから、人生で起こったことに何一つ無駄なんてなく、流されて自分を見失った経験さえも、愛して受け入れてあげてもいいのではないかと思います。ただ、もう大人になったのであれば、いつまでも漂流生活を続けるのはやめて、きちんと現実と自分に向き合う努力をした方が良いかもしれません。おそらく、その時期がきていれば、なんらかのサインを受け取っているはずです。もしくは、今までの生き方がどうにもうまくいかなくなったり、それまで仲良くやっていた人たちに違和感を覚えるようになっていったりしているはずです。

 

 意思の力と勇気を使って、バリアーと浄化を心がけながら、周囲に必要以上に振り回されることなく、自分の道を歩むこと。難しいことかもしれませんが、信じて進むときっと良い事があります。

 

自分にとっての真実とは

 アンジェリックの「Living One's Truth(リビングワンズトゥルース)」。

 

自己の真実を生きる。個人の力を強めるためのエッセンス。自分にとっての真実とは何かを知り、(たとえ過去世からのトラウマや今生での抑圧によって、その真実から切り離されていたとしても)勇気と確信をもってそれを語り、それに従って生きることができるように助けてくれます。のどの周辺を開き、弁解せずに自己の真実を語ることをサポートします。その結果、自分本来のパワーへとより深く繋がっていけるようになります。このエッセンスは、自分にとっての真実に従う能力を高めます。すべてのチャクラ(特にのどと太陽神経叢)を開き、サトルボディを一時的な整合状態に起きます。』

 

 

 ここ数年の流れとして、社会に埋もれていた闇や不正が次々に表に出て、嘘が暴かれ糾弾される出来事が相次いでいます。また、これまで自分本来の姿を抑圧し、自分や周囲に対し真実を隠してきた人たちが、勇気をもって公の場でカミングアウトすることも増えてきました(例えばLGBTの認知度が数年前と比べて格段に上がってきているのも、こうした人々の勇気ある行動のおかげでしょう)。

 これは、今の地球をとりまくエネルギーの変化に同調して自然に起こっていることで、この流れは今後更に加速していくと思われます。

 つまり、私達は嘘や虚偽がまかり通ってきた(上手くカモフラージュされたり隠すことが可能だった)世界から、虚偽が上手く機能しない世界へと移行しているのであり、これからの世の中では、真実がより強い力を持つことになっていきます。

 嘘と真実とでは、真実の方が力を持つので、嘘は真実に勝つことができません。どんなに上手く弁明しようとしても、世の中の目覚めた人々の目をごまかすことはますます難しくなるでしょうし、嘘そのものがパワーを失っていくので、虚偽や不正を無理やりつき通そうすればするほど、自己破壊の道を歩むことになるでしょう。

 

 これは、社会全体としてもそうですが、私達個人にも当てはまることです。今既にこのエネルギーの波はやってきていますが、これからますます、私達は自分自身に対しても嘘がつけなくなっていきます。つけなくなっていくというより、嘘をつこうとすると、どんどん歯車が狂い、機能不全になっていく、といった方が正しいかもしれません。

 

 私達が自分の真実に目を背け、本当の姿を打ち消し、押し殺そうとすると、あらゆる側面で不調和が生じ、上手く回らなくなっていきます。もう既に、その傾向は表れてきているのではないでしょうか。自分ではなんとかごまかせているように感じていても、自分の本質や、本当の望みに背を向け続けていると、エネルギー的な歪みが生じ、様々な現象として表れてきます。ストレスやイライラといった違和感は最初の兆候で、更に抑圧を続ければ、人間関係のトラブルや経済的困難、怪我、事故、病気といった出来事として現象化することもあります。表れ方は様々ですが、真実を隠そうとすれば最初にエネルギー的な不調和が生じ、それが現象として表れる、という流れは社会全体でも個人でも同じことです。今までも、そうした現象は起こっていましたが、今とこれからの時代は、その表れ方がますますスピーディになり、そして大きな現象として表れやすくなっています。

 

 自分にとっての真実を生きる。これは簡単なようですが、とても勇気のいることです。昔から自分を押し殺して生きるのが普通だった人は特に、長く続いた習性を変えるのに強い意志が必要となります。

 ただ、初めは勇気がいっても、踏み出してみると案外スムーズに事が進んだ、ということはよくあります。何しろ真実の方がパワーを持つので、真実に素直に身を委ねた方が、実は物事はしっくり納まるべき場所に納まるようにできているのです。抵抗しているのは、私達の心に潜む恐れや思い込み、古い習性などであって、環境でも周囲の人々でもありません。恐れに基づいた頑なな心をほぐし、少し勇気をもって行動を起こしてみると、意外なほどにあっさりと変化は訪れるものです。

 私達に必要なのは、古い時代、古い生き方と決別する強い意志と、新しい世界へと踏み込む勇気、周囲(特に古い考えに縛られている人々)の視線や言葉をはねつける心、変化を受け入れる柔軟性、そして自分と大いなる力に対する信頼です。

 

 

 私も含め、我が家でも特にここ数か月、様々な変化が起こっていますが、エッセンスにも助けられ、変化に何とか適応し、波に乗ることができています。上手く波に乗ることができると、あとはもう身を委ねて、やってきた出来事に実直に向き合うだけです。私は、人はどんな状況でも、ポジティブに生きることができると信じているので、特に将来に対する恐れや心配は抱いていません。人の幸不幸を決めているのは、起こった出来事ではなく、その出来事に反応している人の心の在り方だと思います。人生に変化はつきものですから、そこにいちいち抵抗していたのでは、心が苦しむだけです。

 今後、更に世の中は変化していき、私達が当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなっていくことがたくさん出てくると思います(良い事も悪いことも含め)。変化に上手に適応し、その都度自分の中のお荷物を手放し、自由に、軽やかに世の中を渡っていけたら、この変革の時代も、喜びと共に、楽しく生きていくことができるのではないでしょうか。

 

 

 自分に嘘をつくのをやめ、自分にとっての真実を生きる決心がついた方は、「Living One's Truth」を試してみることをお勧めします。きっと、たくさんのサポートがやってきて、心の澱をほぐしてくれることでしょう。そして、新しい時代、新しい自分に向き合うことへの抵抗をなくし、スムーズに、たおやかに、変化を受け入れることを助けてくれることでしょう。

 

拒絶したくなった時には

 どうしても苦手だと感じてしまう人と、関わりを持たなければならない場合。バッチの中では、こんな時に対応してくれるものとして「ビーチ」が有名ですが、私はオーストラリアンブッシュの「ボウヒニア」もお勧めしたいです。

 作り手のイアンさんは、アボリジニに案内されてボウヒニアに出会い、エッセンスを作ることにしました。ボウヒニアの下でしばらく瞑想をしていたら、「私を抱きなさい」というメッセージがやってきました。見た目がゴツゴツしていたその樹を、最初は抱く気になれなかったそうです。けれど、そのメッセージが更に強くやってきたので、イアンさんは思い切って抱きしめることにしました。すると、

 

自分が好きではない人も受け入れなさい

 

 という、この花の本当のメッセージがやってきたのだそうです。

 

 私達は、今まで自分が出会ったことのない人や、体験したことのない環境に接した時、最初は抵抗を覚えるものです。人には皆、それぞれ生まれ育った過程で身に着けた固定観念というものが、多かれ少なかれ内在しています。また、変化というものを元々好まないタイプの人もいます。年と共に固定観念がますます強固なものとなり、変化に対する抵抗が強まっていくと、それだけ、新しい概念や人を受け入れることが困難になります。

 ボウヒニアは、そんな状況にいる人に柔軟性をもたらしてくれます。異質なものに接した際のストレスを緩和し、偏見のない心で受け入れることを助けてくれます。

 

 自分と全く生き方が異なっていたり、考え方や行動パターンが理解しがたい人と出会うと、どうしても違和感を感じて拒絶したくなってしまうかもしれません。似たような価値観を持つ人達と一緒にいる方が、はるかに心地良いものです。けれど、もし自分と同じように考え、似たような価値観のもとで似たような発言をする人達ばかりに常に囲まれていたら、どうなるでしょう。おそらく、自分が成長することはあまりないのではないでしょうか。

 

 私達は、他者を見ることで己を知り、自分と異なる人と接することで刺激を受け、成長していくものです。それは、必ずしも自分にとって望ましい人や状況ではないかもしれません。目に優しく、聞こえの良いことだけを提供してくれる人ばかりが、自分にとって最高の教師であるとは限りません。

 

 今自分が接している、とても苦手な人も、自分の見方が変わることで、180度違う反応が生まれる可能性だってあります。その人そのものは変わらなくても、です。

 

 他人を変えることはできませんが、自分を変えることはできます。人生で出会う人や身に起こる出来事に対して、どんな意味づけをするのかは、自分次第です。拒絶してストレスを感じ、挙句の果てに罵詈雑言を吐き出して自らのエネルギーフィールドを汚すのか。受け入れる覚悟を決め、謙虚な姿勢で状況を眺めてそこにあるレッスンを学び、自分の成長の糧としていくのか。どちらの選択をするのかも、自分次第です。

 

 

愛と感謝のエネルギー

 私達は日々様々な出来事に遭遇し、様々な人々に出会います。時には、自分が関わらなければならない人が、あまり気が合わなかったり、受け入れることに抵抗を感じることもあります。

 

 フラワーエッセンスにも、そんな時に役立ってくれるものがたくさんあります。”心の偏見を癒す”エッセンスや、”自分と異なる概念を受け入れる”エッセンス、”他者のネガティブな側面ではなく、ポジティブな側面に目が行くことを助ける”エッセンス、それから”他者との健全な境界線を築く”エッセンス等々。

 

 私が最近特にお気に入りなのが、オーストラリアンブッシュの、「ピンクフランネルフラワー」です。こちらは、「愛」と「感謝」のエネルギーをもたらしてくれるエッセンスです。この二つは、大変波動の高いエネルギーです。今自分が目にしている状況、接している人、自分の身に降りかかっていること、その全てを、「愛」と「感謝」の目で見ることができたら、私達のハートは癒され、ストレスを減らすことができます。作り手のイアンさんは、このエッセンスは、私達が周りを「ピンク色のメガネで見る」ことができるように助けてくれる、とおっしゃっていました。

 なんとこの花は、2004年に40年ぶりに咲いたのだそうです。その話をしていた時、イアンさんは、「今世紀に生まれた子供達は、この世を癒す目的で来ている」ともおっしゃっていました。

 

 愛と感謝。頭では、この二つが本当に必要で、この二つのエネルギーに満たされたいと望んではいても、なかなか実行することが困難なこともあります。ピンクフランネルフラワーは、飲む人が自然な形で、愛と感謝の観点で物事を眺めることができるように、導いてくれます。人生のあらゆる局面で感謝の気持ちを持つことができたら、日々のどんなに些細な出来事に対しても、喜びを感じることができるようになるでしょう。

 

Acceptance~その2

 前回は、自分以外の誰かの選択を受け入れることについて書きました。

 

 それとは別に、私達は、自分自身の身に降りかかった出来事を受け入れることを、困難に感じることがあります。

 

 この世には、自分で変えられる領域と、変えられない領域とが存在しています。変えられる領域は、意図して行動すれば、変わっていきます。けれど、どうしても変えられない領域については、私達は降伏して受け入れるしかありません。私達が煩悶するのは、大概、変えられない領域のことを諦めることができない場合です。もしくは、変えられる領域に踏み込んでいく勇気がなく、躊躇している場合です。

 

 起こるべくして起こる出来事は、とめられません。この世は変化していくし、私達も変化していきます。不変の法則が働いているので、永遠に同じ状態が続くことなどありえません。変わっていくこと、変わってしまったこと、期待通りに進まなかったこと、失いたくないものを失ったこと、災難が降りかかったこと。変えられない領域で起こった出来事は、神の領域です。悲しいけれど、辛いけれど、受け入れることでしか前に進む術はありません。

 起こった出来事に抵抗して、「こんなこと起こるべきでなかった」とか「どうしてこんなことが私の身に降りかかったのか」といった思考でグルグル回っていると、同じところでストップしたまま、成長もなければ平穏も得られない状態がずっと続きます。

 

 私達は、変えられない領域に対しては無力ですが、変えられない領域で起こったことに対する、自分の見方を変えることはできます。私達の内面の状態は、私達の領域です。自由で、柔軟で、可能性に満ちています。変えられないと思っているのは思い込みで、意地だったり怒りだったり、恐れが邪魔をしているだけで、本当はいくらでも変えることができます。

 それから私達は、変えられない領域で起こった出来事から学び、そこを踏み台にして飛躍することもできます。それには、まず初めに抵抗をやめ、拒絶ではなく受容の状態に自分をもっていかなければいけません。

 

 性暴力のトラウマから立ち直った女性達について、アメリカの心理学博士であるジュディズ・ハーマン女史は、次のように書いています。

 

『しかし、私たちははっきり知っているのである。もっともよく回復する女性とは、個人に降りかかった悲劇という枠を超えてみずからの体験に何かしらの意味をみいだす人たちである。いちばんよくみられるのは、この意味を他の人たちとともに社会運動に加わることにみいだす女性たちである。』

~ジュディズ・L・ハーマン著「心的外傷と回復」みすず書房 より抜粋

 

 どんなに悲劇的な出来事に見舞われても、人は本来、そこから立ち上がる可能性と、パワーと、道を用意されているのではないかと思います。私達は、起こったことを受け入れ、そこから何が学べて自分に何ができるかを判断する、謙虚さと冷静さ、そして柔軟性が求められています。

 

 たくさん泣いて良いと思います。何リットルでもいいから一通り涙を流したら、あとは一度ゼロになってみて、自分がどんな状態で今後の人生を生きていきたいかを考える。そこは、私達に委ねられている領域です。

 

Acceptance

 アンジェリックエッセンスの”Acceptance”。解説には、次のようにあります。

 

『受容。人生をありのままに受け入れる。他者や状況を変えたくなる衝動を解放します。ありのままを十分に受け入れ何も間違ったものなどないのだと気づかせてくれます。何かが間違っていて変える必要があるのだという思い込みを解放します。内なる自由をもたらします。』

 

 この、「受け入れる」というテーマほど、私達が葛藤し、苦悩し、困難に感じるものはないのではないかと思います。受け入れられたら楽なのだろうけれど、それができないから悩むわけだし、苦しいわけです。

 

 特に自分と関係が近かったり、思いを強く抱く相手ほど、自分の理想の姿でいてほしいと望んでしまうものだし、期待と異なる言動をされた時に、動揺したり時には怒りさえ覚えてしまいます。関係が近ければ近いほど、思いが強ければ強いほど、期待も大きくなるし、それと同時に動揺や失望も大きくなります。つまりそれだけ執着が強いから期待というエゴも強くなるわけです。とはいえ、家族のような間柄だったら、執着を完全になくすことは難しいので、期待しないでいるなんてそもそも無理なのかもしれません。

 

 家族や特別な間柄には、その関係性の中に何かテーマがあるものです。お互いが共鳴し、影響し合いながら、学び、気づき、成長していく契約のようなものが事前に定められているようです。そういう関係性であれば、自分が相手に対して負う責任や、なすべき仕事があったりします。大抵、本当に必要な言葉や行為というのは、自然な形で生じるものだし、相手にもストレートに響くものです。なすべき仕事は、自然な形でなされることがほとんどです。

 その一方で、自分が本当に負うべきではない仕事、自分が本来求められていない役割というのは、相手にも受け入れられません。あれこれお世話を焼いたり、アドバイスをしてあげたり、手を貸してあげたくなったとしても、本来自分がやるべき仕事でなければ、それは相手にとって必要なことではないので、拒絶されたり抵抗されたりします。

 

 私達に"Acceptance"が必要なのは、そんな時です。自分がその”仕事”をする立場ではないこと、相手が自分にそれを求めてはいないこと、少なくとも今は、そのタイミングではないこと。そうしたことを受け入れ、身を引く。難しいことですが、自然な形で進まないことは、そこに何か摩擦が生じているのです。

 

 相手の選択を受け入れ、リスペクトする。私だったらこうするのに、というエゴの観点を手放す。葛藤があるかもしれませんが、相手の選択をリスペクトできるようになると、”何も間違ったことなどない”という事実が、染み渡るように理解できるようになります。

 

 自分がなすべきことと、そうではないこと。その違いを賢く見極めることが、受け入れることへの鍵となるように思います。

 

 

新年を迎えて

 新しい年になりました。皆さま今年もどうぞよろしくお願いいたします。昨年も、多くの方にうぶすなをご利用頂き、ありがたい限りでした。まだまだ未熟者の私ですが、うぶすなをやりながら、自分自身もたくさん学ばせて頂いております。私生活では、反抗期の子供に手を焼く一主婦でもあり、他の方々と同じように悩み、迷い、反省をしながら進む日々です。一生勉強、一生前進をモットーに、今年も謙虚に学び、成長していきたいと思います。

 

 こんなことをやって誰か来てくれる方がいるんだろうか、と思って始めたうぶすなですが、今年でいよいよ5年目になります。この5年の間に、うぶすなを始めなかったら出会っていなかったであろう方々と出会たことは、私にとっても得難い経験でした。

 中には、何年もかけてご利用くださっている方や、何度も何度も足を運んでくださる方もいらっしゃいます。うぶすなを訪ねてくださるお客様が、フラワーエッセンスの力を借りながら、ポジティブに変容されていく姿を見るのは、本当に喜ばしいです。

  そういう方々を拝見して、私は、ポジティブに変わっていく人には共通点があると感じています。それは、「謙虚さ」と「変わろうとする意志」、それから「自分に向き合う勇気」です。特に謙虚さというのは、人が成長するために欠かせない要素だと思います。己の小ささを知り、未熟さを認め、学びの過程にいるということを受け入れることで、今目の前にある課題や、自分が向き合うべき問題が明確になります。謙虚さがなければ、自分が何に向き合えば良いのかが見えてこない(見ようとしないだけなのですが)ので、上手くいかないことやトラブルを他人のせいにしたり、運命を呪ったりすることになりがちです。

 「変わろうとする意志」は、当然ですが、これがなければ物事はなかなか動きません。まずは、「変わろう」と決心することが、変化が起こる原動力になります。そして、受け身の姿勢から「自分次第で変わることができる」と心持が切り替わることで、未来に対する希望が湧いてきます。そうなると自然に、自分が為すべきこと、取るべき行動が明確になります。変わるも変わらないも自分次第、変わろうとして努力すれば、状況はいくらでも変化していく、という真理に確信が持てるようになれば、もうこっちのものです。このからくりを信じることなく、物事は変わることがないと、諦めてしまっている方がとても多いのが残念です。

 それから「自分に向き合う勇気」ですが、これもなかなか難しいことです。謙虚さにも結び付くことですが、今ある苦しみの原因は己にあるということを受け入れるには、最初は抵抗を感じるものです。そして、そこを受け入れた後、誰もが一番見たくない、自分の内側を見つめるという作業が待っています。フラワーエッセンスは、この作業をスムーズに進めるのを助けてくれます。気づきを促し、気づきを加速させ、その時に生じる埃やゴミを素早く浄化してくれます。

 

 難しいことのようですが、上に挙げた3つさえあれば、逆に自分が進むべき道や取るべき行動がクリアーになるので、様々な問題が解決しやすくなります。要は、受け入れられるかどうかだけです。ポジティブに変わっていく方々は、物事や真理を受け入れる許容があり、柔軟性が高いと感じます。そしてとても謙虚です。謙虚だけれど勇気があります。真の強さを持っていらっしゃいます。私の方がパワーを頂いていると感じるくらいです。そういう方は、フラワーエッセンスとの接し方も心得ていらっしゃって、決して全てをエッセンス頼みにはしませんし、上手くいかないこともエッセンスのせいにはしません。高い山に登る時、防具やステッキに助けてもらうように、自分の歩みの支えとなってくれる助っ人として、エッセンスを利用されています。

 

 

 こうしたことは、私自身も、フラワーエッセンスを使いながら、様々な気づきを経てわかってきたことで、最初からちゃんとできていたわけではありませんでした。今も、毎日様々な気づきがあり、反省があり、お客様にも教えられ、日々学んでいます。

 

 謙虚さといえば、若い頃の私は謙虚とは程遠い状態でした。思い出すのも恥ずかしいほど、謙虚ではありませんでした。その頃と比べると、今はだいぶ謙虚になったとは思いますが、それでもまだまだです。ただ、以前よりは謙虚になったことでわかったのは、人は謙虚になった方が実は楽だということです。それから、謙虚になればなる程、サポートがやってくるということも知りました。物理的なサポートに限らず、見えない世界からのサポートも、謙虚な人の所へやってきます。謙虚になるのは難しいことですが、それだけの価値があります。

 

 今年も謙虚さに磨きをかけるべく、日々邁進していこうと思います。

 

リンクする体験

 子供を育てていると、自分が子供だった頃に抱えていた問題に再び向き合わされることがたくさんあります。自分の中で未解決だった問題、きちんと消化できていなかった出来事を、子供がまるで再現するかのように、物事が起こるのです。子供が抱える友達同士のトラブルは、まるで二十数年前の自分を見ているかのようです。子供が苦手な先生の話をしているのを聞くと、あの時私が大嫌いだった先生にそっくりで、様々な記憶が蘇ってきます。

 

 先日娘の部活のことを書きましたが、やはり娘と部活の関係も、かつての私と部活の関係を映し出しているかのようなのです。特に、勝つことにしか関心がなく、部員をまるで駒のようにしか捉えていない顧問の先生などは、もしかして私の時の顧問と親類なのではないかと思ってしまう程タイプが一緒です。

 

 最初は張り切って始めた部活も、だんだんしんどくなり、そのうち「部活行きたくない・・」という言葉が娘の口から出てくるようになった時、私は、こういう事態を招いたのは、私が過去の問題を解決していなかったからだろうか、と自分を責めました。親子間では、未解決の課題がまるでリレーのように受け継がれていくことがあります。

 

 とりあえず大人で親となった私ができることは、あの時の自分だったらどうしてほしかったかを考えること。あの時私は、部活が嫌で嫌で仕方なかったけれど、周りに相談できる大人がいませんでした。親にも軽く話したことがありましたが、そのくらい我慢しなさい、程度の答えで終わってしまいました。その反応をみて、もうこれ以上話すのをやめよう、と思ったのでした。

 ですから私は、とりあえず娘が部活の愚痴を言った時は、とことん聞くことにしました。軽くあしらわず、”ちゃんと”聴きました。嫌だという気持ちを否定せず、同調するようにしました(実際、自分の時と状況が似ているので、全く私も共感できる内容なのです)。そして一緒に愚痴りました。それはひどいね、それは嫌だよね、本当はこうだったら良いのにね・・・

 あの時の私だったら、大人にそう言ってもらいたかったであろう言葉をかけました。一通り吐き出すと、人はある程度スッキリして冷静になるので、さてこの状態で自分は一体どうしたら良いのだろう、という見通しが立つようになります。

 娘には、何度も「部活は義務のようであるけれど、本当は義務ではない。辞めたかったらいつでも辞めて良い。無理やり続けて精神を病むくらいなら、辞めた方がよっぽどマシだ」という話をしました。実際、娘と仲が良かった同じ部活の友達が1人、辞めています。けれど娘の答えはいつも、「先生は嫌だけれど、部活の友達とは仲が良いので、辞めたくはない」というものでした。そして、「このまま辞めるのは悔しい。負けたくない」とも。そういう負けん気の強い所も、かつての私と似ています。

 その意志は固いようなので、それは尊重することにしました。そして、親としてできることをやることにしました。”部活”というものはそもそも一体何なのか、どういう位置づけになっているのか、文科省のサイトなどを調べたり、専門家の本を読んだり、教育委員会の担当部門に問い合わせをしたりして、詳しく調べることから始めました。ある程度知識を付けたら、他の部員の保護者の意見も収集して(アンケートを取りました)、それをまとめ、意見書として顧問の先生に提出しました。そして、それを元に先生に交渉しました。いろいろ調べていくうちに、本来部活というものは、顧問が好き勝手に決めてやって良いものではない、生徒の意思を尊重するべき、という定義がなされていることを知ったので、ここはかなり強気でいきました(教育委員会の方のアドバイスも心強かったです)。

 

 そのようにして、変わったこともありましたが、変わらないままのこともありました。それはそれで仕方がないことです。でもひとまず、休みを取ることもままならない状況は改善されました。娘のように、部活以外にもやりたい活動がある子供のことも、尊重してもらえるようになりました。今までのように、休みを申請しようとすると、呼び出されて脅しをかけるようなことはしなくなりました。

 

 まだ完全に部活から解放されたわけではありませんが、一連の動きが落ち着いてみると、私の中でも何かが変わりました。部活にがんじがらめにされていた娘が、少し解放されてホッとしている姿を見て、部活に苦しんでいた過去の私も、同時に解放されていくような感覚を味わいました。そして、部活に悩んだこと、辛かったこと、嫌な思いをずっと持ち続けてきたことも、ここに繋がっていたのかと思うと、全てが「あって良かったこと」だと思えるようになりました。

 

 

 部活の出来事はほんの一例で、こういうことが小さい頃から本当にたくさんあります。どちらかというと、息子より娘の方が、共有している課題が多いような気がします。きっとこれからもそう感じることはあるのだろうなあと思います。その都度、自分に与えられた課題に目を背けず、きちんと向き合っていこうと思います。

 

 

部活

 ついこの間娘が中学に入学したような気がしていましたが、もう2年生の終盤に入ってしまいました。4月からは受験生。いろいろと意識も変わってきているようです。

 

 去年までは、ハードな部活の勢いに飲まれ、平日も休日も長期休みもとにかく練習や遠征に追われて、自由にお出かけする時間などまともに取ることができていませんでした。私も、中学生の部活とはそんなものだろうと考えていました。自分の時も、部活は全員強制参加だったし、一度入ったらその部活の一員としてさぼることは許されない、入ったからには一生懸命やる、が当たり前だと思っていました。

 

 けれど、お休みもほとんどなく、学校がない時はひたすら遠征、それも早朝に家を出て、夜9時近くになってヘロヘロになって帰ってくるようなハードスケジュールばかり。疲れとストレスで次第に娘の表情から笑顔が消えていくのをみて、「これはおかしい。異常だ。」と感じるようになりました。時々休んでゆっくりすることはもちろんのこと、勉強の時間さえきちんと取れない生活なんて、中学生の生活としてまともなのだろうか。それに、こんなに練習をさせられているにも関わらず、娘の部活は実は大して強くなっていないのです(地区予選2回戦落ちレベル)。聞くと、顧問の先生にはそのスポーツの経験がなく、あまり具体的でわかりやすい指導はしてもらっていないようです。そのわりに、練習時間だけは他のどこよりも長く、しかも口汚い言葉遣いで、怒鳴る、威張る、プレッシャーをかける、脅す、etc..と、時代に逆行した指導方法を行い、子供達の信頼もどんどんなくなっていました。

 こんな環境は、プラスになるどころか害にしかならない。これぞ今言うブラック部活ではないか。私は、娘の意思を聞いて、部活の環境が少しでも改善されるように、保護者会でかけあってみることにしました。

 その時に錦の御旗にしたのが、今年3月にスポーツ庁から出た、『運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン』です↓

 

http://www.mext.go.jp/sports/b_menu/shingi/013_index/toushin/1402678.htm

 

 また、さいたま市が独自に出している指針もあったので、そちらも参考にしました。このガイドラインに、運動部活動の在り方や、基準となる練習時間や休日の頻度、顧問が心がけるべきことなどが、詳しく明確に書かれています。これを初めて読んだ時は、あまりの内容の素晴らしさに思わずブラボースポーツ庁、とつぶやいてしまいました。どの部活も、ここに書かれている内容を実践してくれたら、どんなにか素晴らしい環境になることでしょう。そうなるのはまだまだ遠い先かもしれませんが・・

 

 ともかく私はこれを印籠として顧問の先生と他の保護者の方々に示し、「生徒1人1人の、部活動への関わり方の自由を認めてほしい」「ガイドラインをきちんと守ってほしい」と訴えました。

 細かい過程は省略しますが、とにかく何とか、休みはきちんととってくれるようになりました。それから、子供が休みを申請した時には、厳しく追及することなく、何も言わずに認めてくれるようになりました。私が思っていた以上に、「練習時間はこのままで良い」と考えている保護者の方が多く、そういう方々にしてみれば私の訴えは迷惑だったかもしれませんが、少なくとも関わり方は人それぞれであっても良いのではないか、と言いたかったのです。全ての子供が、部活に全てをかけられるわけでもなく、そうしたいと望んでいるわけでもありません。公立の中学校においては、部活への参加がほぼ強制となっている以上、参加の仕方にある程度柔軟性があっても良いのではないかと思うのです。

 

 ・・とこういうことがあったのが数か月前。それから娘は、休みが増え、自分のやりたい事に時間をかけるゆとりができて、表情が見違えるように生き生きしてきました。習い事や学校行事にも積極的に参加できるようになり、とても楽しそうです。部活は辞めてはいませんが、今は自分のペースで参加しています。それによって、他の部員の子達からいろいろ言われたりするのではないか、居心地が悪くなったりはしないか、と親としては多少心配していましたが、何を言われてもいい、私は私のやりたいようにしているんだから、気にしない、とのこと。

 

 アンジェリックエッセンスの、「Living One's Truth」や「Confidence」「Self-Love」などにも助けられているように思います。自分がやりたいことをできている時は、心が満足しているので、多少の障害があっても乗り越えていけるのかもしれません。

 

 それにしても、去年までは、私も娘も、びっくりするくらい部活の勢いに飲まれてしまっていました。冷静になって振り返ってみると、あんなに時間と体力を注ぐ必要はなかったのではないか、もっと早く気づいて対処してあげればよかった、と考えてしまいます。気づくまでに1年かかりましたが、娘にとっても私にとっても、いろいろと学ぶことが多かった部活でした(まだ終わっていませんが)。

 

自由と孤独

 長年内側にため込んできた感情を浄化する方法はいろいろありますが、一番効果的で即効性があるのは、「誰かに話す」ことです。

 癒しの過程で他者の助けが必要なのが人間です。ただし、自分がずっと抱えてきた感情を誰それ構わず吐き出せば、当然弊害もあります。理想的なのは、”地に足の着いた、落ち着いて理性のある、自分が信頼できる他人”を見つけることです。話す相手に受け止める許容がなければ、自分が吐き出す負の感情にその人が圧倒されてしまう可能性があります。

 

 話す以外にも、「書く」ことでも感情の浄化はできます。紙やノートに書くだけでなく、今は様々な媒体があるので、ブログやSNSなどで自分の考えや気持ちを吐露する人もたくさんいらっしゃいます。そうした媒体に書くことで、自分の気持ちに素直になり、思いが解放されていくこともあると思います。

 ただ、私がそういったブログなどを拝見して感じるのは、書いているうちにそれを読んでくれている人の反応を気にするようになり、次第に本心を書くことより、読者を満足させることにエネルギーを注ぐようになっていき、内容がどんどん遠慮がちになっていくパターンです。もちろん、読者を満足させることがメインの目的であればそれで構わないと思うのですが、自分の本当の気持ちを発信することが本来の目的なのであれば、周囲の反応は初めから気にしないと強く決意するか、影響が極力及ばないようなやり方を採用した方が良いかもしれません。

 不特定多数の人に受け入れてもらうことと、自分の本心を表に出すことは、本来両立しないものです。

 

 ネット上でも、自然発生的にコミュニティーは出来上がっていきます。そういう場に”所属”してしまうと、そこにいるメンバーを意識せずに好きなことを書くことは難しくなるのではないかと思います。

 実生活でもネット上でも、自由が一番ですが、自由には孤独がつきものです。

 

感情の癒しと浄化

 2018年に新しく出たばかりのアンジェリックエッセンスその2は、『Emotional Healing(エモーショナルヒーリング)』です。

 

 このエッセンスは、感情をしっかり「感じる」ことをサポートすると同時に、私達が感情に支配されるのではなく、感情に寄り添い、そしてスムーズに浄化していくプロセスを助けてくれるものです。

 

 私達には、日々様々な出来事が起こり、その1つ1つに対処していく過程で、たくさんの感情が生まれます。感情そのものは、自然発生的に起こっており、ただのエネルギーです。ただ、中にはきちんと「感じる」のが不快に思えるものや、自分がそうした感情を抱いているという事実に向き合いたくないこともあります。

 人がなかなか自分の感情に素直に向き合うことができないのは、文化的、宗教的な教えとして、人が感情を表に出すことはあまり良いことではないとされていることや、成育過程において、安心して感情を露わにすることが困難な環境にいたことなどが、背景としてあるかもしれません。

 自分の内側から自然に沸き起こっている感情を直視することができなかったり、受け入れることができない状態だと、感情は中途半端に昇華されるにとどまり、不完全燃焼のままいつまでも私達の内部に留まることになります。そして、沈静化したかと思えばまた浮上し、何とかなだめすかせていなくなったかと思ったら、忘れた頃にまた表に出てきたり、という負のループを繰り返し、その都度振り回されることになります。

 

 今まできちんと自分の感情に向き合った経験がなかったりすると、感情というものが、何かコントロールのきかない魔物であるかのようなイメージを抱いてしまっているかもしれません。感情は、押さえつけるか、なんとかしてコントロールしなければ、暴走して自分を苦しめ、そしてしまいには肥大化した感情の海に溺れることになる・・・そんな誤解をしてしまっているかもしれません。

 

 しかし、本来感情というものは、私達が思っている程危険なものでも、怖いものでも、”悪い”ものでもありません。感情で死ぬことはありませんし、私達を支配できるほど強くもありません。いざ、沸き起こってくる感情に対して完全にオープンになり、しっかり感じ切ってみると、それは意外なほどあっさりと私達の中から外に出て行ってくれます。否定せずに受け入れれば受け入れる程、スムーズに、スピーディに浄化されます。抵抗したり、中途半端に感じる程度に終わってしまっているから、いつまでも私達の内面でくすぶり続け、それに対して真摯に向き合うきっかけを逃してしまっているのです。

 

 

 これまで、しっかりと感じ切ることがなかったたくさんの感情は、私達の内部に長年蓄積されてきました。準備ができて、浄化のタイミングがやってくると、長い間閉まっていた蓋が開いて、ため込んでいた感情が次々と出てくることがあります。そんな時、フラワーエッセンスやアンジェリックエッセンスはとても力強い味方となってくれます。感情に対する恐怖心が和らぎ、私達が感情に向き合う勇気をもたらしてくれます。そして、感情に飲まれることなく、スムーズに浄化するお手伝いをしてくれます。

 

 

プログラミングの影響と解消

 『Clearing Program(クリアリングプログラム)』は、2018年に新しく出たアンジェリックエッセンスの1つです。

 

 私達は、母親の胎内にいる時から、様々なプログラムを受け続けてきました。特に、出産前後にはより強くプログラミングの影響を受けやすく、この時期に受けたプログラミングが、その人の信念体型に深く組み込まれ、強い威力でコントロールしていくことになるのだそうです。例えば、出産時に無理やり引っ張られて生まれてきた人は、その時本当は”まだ準備ができていないのに無理やり引っ張られた”という経験をしたことで、他人が決めた時間に合わせることにどうしても抵抗を感じてしまいます。そして「時間を守れない人」になっていき、自分でもどうしてだかわからないけれど毎回遅刻してしまう、というようなことが起こります。

 出産時や乳児期におけるプログラミングの影響が特に強い理由としては、赤ちゃんは、「考える」ことをせずに、ただ純粋に「感じる」だけで、環境や状況を概念としてではなく、感覚として味わっているためです。感覚として受けたものがプログラミングとなり、無意識の領域において強い影響力を持つようになっていきます。乳児期は周囲のエネルギーに対してオープンなので、最初に受けたプログラミングが根深く入っていき、そのプログラミングと共に育っていくことになります。

 そしてその後も、成長過程において、両親や先生、コミュニティ、文化や、様々な出来事の影響を受けることによって、プログラミングが重なっていきます。といっても、生まれた時の体験というのがコアプログラミングとして、その人の核となっていくことが多いのだそうです。例えば、難産だったために出産が大変で、母親が世話をできる状態ではなかったり、ピリピリしていたり、甲斐甲斐しく世話をされなかったり、といった環境であった場合、「自分は歓迎されていない」「私はここにいてはいけないんだ」という感覚を持つようになり、それがプログラムのベースとなっていきます。そしてその後の人生においても、「私は注目をされない」という強い信念体型が出来上がり、その信念に呼応した現実体験を創り出すことになります。プログラムというのは、人生においてずっと、テーマとして流れているものです。繰り返し起こるパターンに対して、気づかないまま終わってしまうことも多いです。

 

 

 プログラムが成されたこと自体は悪いことではなく、ただその人の中に留まっているだけです。大体においては無意識ですし、プログラミングされた時というのは頭で理解しているわけではないので、突き止めるのも大変難しい事です。

 『Clearing Program』を飲んでいると、気づかないうちにプログラムが解消していきます。そして、プログラムが解消されると共に、記憶に縛り付けられることもなくなっていきます。自分のプログラムを掘り起こす必要もありませんし、飲むだけで楽になっていきます。

 プログラムそのものを責める必要はないし、プログラムを受けた自分も非難する必要はありません。魂の選択に間違いなどはなく、自分が選んだ体験は、決して「悪い」ものなどではないのです(ただ不快に感じているだけ)。そしてもちろん、プログラムが作られるきっかけを作った親や周囲の環境にも非はありません。何が悪くて何が良いかという問題ではなく、自分が選んだ選択と経験を、今後も続けていきたいのかどうかということです。私達には、選ぶ権利があります。私達は最終的に、自由を得るために今ここにいます。不快に感じる経験を今後も続けていくのか、そこから自分を解放して自由に軽く生きていきたいのか。私達は、選ぶことができないと思っているだけで、本当はどちらかを選択することができます。

 

 

アンジェリックエッセンスワークショップ

 アンジェリックエッセンスの作り手であるルース・ジョイさんの来日ワークショップに参加してきました。

 新しく出たエッセンスの説明も含め、今回もアンジェリックエッセンスの深淵なる智慧をたくさん聞けて大変濃厚な時間でした。

 

 今娘が思春期なので、思春期の子供を助けてくれるエッセンスについても質問をしたところ、とても丁寧に教えてくださいました。しかも、休み時間にわざわざ私の所に来てくださり、いろいろとアドバイスをしてくださり感激です。

 

「あなたが娘さんのために選んだエッセンスは、あなたも一緒に摂った方がいいわよ」

 

とのこと。どうしてかというと、

 

「母と娘というのは、(エネルギー)フィールドを共有しているから」

 

 だそうです。ということは、抱える問題も共有しているものが多分にあるということ。家族の問題というのは、代々受け継がれていくことが多いのですが、特に母と娘というのは、合わせ鏡のようにお互いを映し出しているものです。鏡であるということは、単に似たような性格になったり、同じような生き方をしてしまうというわけではありません。正反対の性格や生き方を選ぶこともまた、投影の別の形といえます。

 ルースさんにも同じ14歳のお孫さんがいらっしゃるとのことで、「この時期の子供が感情の起伏が激しくなることはとてもよくわかる」と親身になってくださいました。

 

 思春期は、脳にも変化が起こっているのだそうです。ホルモンも変わるし、人生に訪れる大きな変革期といえます。そのステージをくぐり抜けることは、とても大変なことなのです。様々な面で調整が起こっているので、不安定になったり、時々自分のことを上手くコントロールできなくなるのも、無理はないのかもしれません。親との関係性も変わる時期です。最終的には親の元を離れていくわけですが、その前段階として、親を拒絶するような態度をみせたりしています。(とはいえ、本当は親を必要としているのですが)

 親自身も、子供がそういうプロセスを歩んでいることを理解し、受け入れることが求められます。

 

 ルースさんはたくさんのエッセンスを紹介してくれましたが、この時期の問題は複雑なので、それだけサポートが必要だということです。

 ルースさんご自身も、息子さん達に反抗された過去があったとのことで、なんだか親近感が湧きました。親を拒絶することが「彼らの仕事」なのだから、そう考えたら「まあ、いい仕事をしているってわけね」と笑っていました。

 

 アンジェリックエッセンスは、ルースさん自身が、問題や障害に直面した時、「こんなエッセンスがほしい」と願ったことによって与えられたものがたくさんあるのだそうです。そんな風にして、自分自身がエッセンスに助けられ、課題を克服してきたとのこと。そして、今もまだエッセンスについてよくわかっていないこともあるし、これから皆さんと一緒に学んでいきましょう、とおっしゃっていました。

 そして最後に、「皆さん自身のケアを忘れないで」という話をしてくださいました。他人を助けるためには、自分がまず健全で、良い状態でいなければいけません。自分自身が安定してこそ、人のために動けるものです。自分に慈愛を与え、ケアすること。ともすればおろそかになりがちかもしれませんが、実は優先順位が高いことなのです。

 

人の感情を受けない

 他人の感情に敏感な人は、例えば誰かに怒りをぶつけられた時などに、まるで見えない鉄砲に打たれたかのように衝撃を受けます。ネガティブな感情が持つ威力というのはとても強いので、一瞬受けただけの感情の爆発の衝撃が、いつまでも尾を引いて影響を与え続けることだってあります。

 

 過去に受けた他人の感情の爆発に、いつまでも苦しめられたくはないものです。私も長いこと、この”感情の衝撃”を思い返しては、その都度衝撃がフラッシュバックして落ち込む、という経験を繰り返してきました。

 他人の反応や感情に対して、自分のとらえ方が変わってから、このループからようやく抜け出すことができるようになりました。

 

 その人がどんなにネガティブな感情を自分にぶつけてこようが、その感情の出処はその人であって、私ではありません。その人の中の何かが、私という対象に反応して、怒りやら悲しみやら恨みやらの感情を生み出したわけです。その人がそのような反応をしている理由は、その人の内面的な問題です。私はそこには関係がありません。他人が何に反応するかなんて、私には一切責任がないことです。たまたま対象が自分だっただけです。

 誰かの内面の問題にまで、私が責任を負う必要はありません。もしその人が、自分の内側に抱える問題を解決すれば、もう私には怒りをぶつけてこないかもしれません。そして、その人ではなく別の人だったら、同じ「私」に対して、全く別の反応をするかもしれません。人が何に反応して、その時にどんな感情が生まれるかなんて、その人の内面次第で千差万別です。私がどうだからということではないのです。全て、その人の内側の問題です。

 

 だから、どんなに怒りを爆発させている人がいたとしても、どんなに攻撃的な感情を向けられとしても、それを個人的に受け取る必要がないわけです。私の個人的な問題ではないのですから。

 

 もし、人から非難されたり攻撃をされた際、その時の自分にも非があると思うのだったら、それはそれで個別に反省をすればいいだけです。ただその時に、相手から沸き起こっている”感情”まで受け取る必要はありません。感情の渦から離れて、ただその現象から学び取れることにだけ目を向ければいいのです。

 

 

 自分の感情と、他人の感情の区別をしっかりつけることも大事です。これは自分のものなのか、相手のものなのか。自分の感情には責任を持つ必要がありますが、人の感情に対してまではその必要がありません。きちんと区別ができないと、ただスポンジのようになって周囲の想念を吸い取り、翻弄されてしまいます。人の感情や想念に意識的になって、冷静に対処すれば、それに飲み込まれることも、圧倒されて何もできなくなるようなこともなくなります。

 

 それでももし、誰かのネガティブな念を受けてしまったと感じる時は、自分でヒーリングをします。瞑想をしたりお風呂に入ったりエッセンスを飲んだり眠ったり、できることは何でもします。そして、自分のエネルギーフィールドに光を通すようにします。ネガティブな想念は攻撃力はありますが、所詮低い波動のエネルギーなので、光を当てられると消えてしまいます。

 

 ちょっとしたコツとテクニック、そして訓練が必要ですが、私はこれで人の想念に振り回されることが劇的に減りました。

 

自己価値を高めるには

 割と最近(といっても2015年ですが)出た、『Worthiness(ワージネス)』というアンジェリックエッセンス。うぶすなでも使用頻度が高く、すぐになくなります。これは、その名の通り”自己価値”を高めてくれるエッセンスです。

 

 ナルシストタイプの人や、エネルギーバンパイアの餌食にならないためには、自分という存在を確固たるものにしておく必要があります。自分以外の誰かの言葉に左右されたり、意のままに操られたり、労力や金銭をもぎ取られるような状況にいる時というのは、大体自分がどこかに置き去りにされています。

 

 ”私”はどう感じているのか。”私”はどうしたいのか。”私”はどの道に進みたいのか。こうした意思や気持ちは、本当はどの人の中にもあるものです。けれど、自分をなおざりにする習慣が長く続いて、それが当たり前になっていると、心の声を無視したり、聞こえないフリをしたり、抑え込んだり、ということを無意識で行ってしまいます。

 

 しかも、心の底から他人に同意して合わせているわけではなく、どこかで自分の本当の望みや気持ちを抑圧した状態で他人に無理やり合わせていると、怒りや悲しみといった鬱屈した感情も同時に抱え込むことになります。

 

 更に、「いい人」を演じる傾向がある人は、こうした鬱屈した感情をネガティブなものとして否定し、そういう感情を抱いている自分もまた許せません。自分を押し殺し、他者に合わせ、表面上は従順ないい人を演じていながら、内側にはずっと、自分を認めてもらえない悲しさや、理解してもらえない悔しさ、気づいてもらえないことに対する怒り、フラストレーション、などを蓄積していきます。

 

 長い間他人(家族も含めて)に合わせて自分を造り上げてきた人が、そんな自分に気づき、変わりたい、これからは自分の本当の気持ちに正直に生きよう、と決心した時、まず最初に取り掛からなければいけないのは、心の中にたくさんため込んできた、負の感情を吐き出すことです。蓋をして、我慢して、見ないようにしてきた自分の内面に向き合い、そこに何があるのか、正面から向き合う時間が必要になります。それは勇気がいることです。怒りや恨みなんて、自分が持っていたくはない感情なのですから、それが「ある」ということ自体、認めたくないかもしれません。

 

 けれど、前に進むためには、心の浄化が不可欠ですし、自分のありのままの姿を認めて受け入れられていなければ、他者に振り回されることのない、芯の通った自己を確立することは難しいです。自分の過去も、弱さも、全てひっくるめて自分という存在を受け入れられなければ、どこかで自分をいじめる構造が残ります。自分に認めたくない一面があったり、自分を責め続けていると、意地悪な人や妨害してくる人を引き寄せたり、肝心な所で夢が叶わなかったり、自分が不幸になるシチュエーションを創り出すことになります。

 

 なんだかしっくりこない今の状況があるとすれば、本当の意味で自分が幸せになる許可を、自分が出していないからです。自分を責めていたり、私なんか取るに足らない存在だと、どこかで価値を低くしてしまっていると、世界はその通りになります。価値のない(と思っている)自分に見合った状況が創造されていきます。

 

 

 自己価値を上げる方法は様々ですが、まずは取り掛かりとして、自分の気持ちに素直になることを何より優先させてやってみてください。自分が率直に感じていることを否定しない。責めない。どんな感情が湧いてきたとしても、それをそのまま認めて受け入れてあげる。どんな風に感じていようが、とにかく自分を否定しない。誰が何と言おうと、私は今、こう感じているのだから、そんな自分をまず受け入れてあげる。

 

 否定せずに、受け入れることで浄化が進みます。否定している間は、どす黒い膠着したエネルギーとして、悶々と抱え込むことになります。手放したかったら、認めて光を当てるしか方法はありません。それを繰り返していくうちに、自分を責めるパターンから少しずつ脱却していき、エネルギーフィールドがクリアーになっていきます。暗闇に光が差し込むと、暗闇が消えてなくなるように、負の感情を消すには、そこに光を注ぐことです。

 慣れてくれば、淡々とこの作業を行えるようになります。内面が浄化されていけば、自然と自己価値も高まり、自分という存在を大事に扱うようになっていくでしょう。

 

組織からの脱却

 子供の頃に読んだもので、魂の深い部分に響いた記憶がある本がいくつかあります。プロイスラーという人が書いた、『クラバート』という本がそのうちの1つです。私はこの本を確か小学校の高学年くらいの時に読んだ記憶があるのですが、読み終わった後になんともドシーンと残るものがあったのを覚えています。

 その時には、まだこの本の真のメッセージ(私の勝手な解釈かもしれませんが)に明確には気づいていなかったと思いますが、大人になってからこの本のことをふと思い出した時に、「あ、あの本は、支配からの脱却を示唆しているんだ」と感じました。

 大人が読んでも十分に心に響く内容なので、ご興味があればぜひ読んで頂きたいのですが、親方(水車小屋にいるが実は魔法使い)に弟子入りしたクラバートという少年が、親方の下で修業しているうちに、親方の裏の顔に気づき、ある時意を決してその呪縛から逃れる行動に出る・・といったお話です。私はなぜかこの本のことを、大人になってからジワジワと思い出すことが増えました。親方の下に導かれるようにして弟子入りをし、その後親方の本当の姿を知ることになって、不条理に従うことに違和感を覚え、そこから逃れることを考え始める。けれど、一度組み込まれてしまった支配構造から抜け出すのは、そう簡単なことではなかった・・

 最終的には、クラバートは恋人の少女の助けを借りて脱却を果たすのですが、この物語には、示唆的な出来事がたくさん散りばめられています。親方自身も、実は大親方に支配されていて逆らえない状況であること、盲目的に服従する弟子達の姿、逆らおうとしたが、やり方がまずくて身を危険にさらすことになった兄弟子、不安によって自由が奪われ、逃げるという発想すら湧かない異常心理状態など。現代社会においても、組織やグループの中では、こういうことって実はよく起こっているのではないかと思います。

 

 

 最近、娘の仲の良い友達や、知り合いのお子さんが、立て続けに中学校の部活を辞めるという出来事がありました。どちらも、言葉の暴力がひどく、生徒を威圧的に指導する顧問の先生に耐えられず、心が折れてしまったのが大きな理由でした。中学生にとって、所属している部活を辞めるというのは、本当に大きな大きな決断です。どんなにつらくても、なんとか踏ん張って最期までやりきるか、思い切って辞めてしまって自由になるか。きっといろいろな葛藤があったと思います。肉体的にも精神的にも苦痛を感じながら続けるのは本当につらいことですが、辞めたら辞めたで、周りの視線が気になるし、辞めた自分に対する罪悪感や、後悔の念が湧いてきたりと、どちらの決断をするにしても苦しむものです。

 

 けれど私は、自分を追い詰めて取り返しがつかない状況になるくらいなら、いっそのこと今いる環境から思い切って自分を解放してあげて、一度リセットしてもいいのではないかと思います。逃げ、というとなんだかずるいことをしているような響きがありますが、こういう状況では、逃げるというのは身を守るための1つの手段でもあります。逃げるというか、脱出、といった方がいいかもしれません。

 辞めたお子さんのお母さんは、「子供が逃げ癖がついてしまうのではないか」と心配をされていました。そう思う気持ちもわかります。けれど、自分が選んだ組織が、入ってみたら自分に全然合わないことが判明したり、実はとんでもない場所だったことに入ってから気づいたなんてことは、誰もが経験する類のものです。私もこれまでそんなことはたくさんありました・・

 そういう経験も、長い人生の中では数ある学びの1つとして、後々何かの役に立つのではないでしょうか。逃げとか失敗とかみるのではなくて、自分のことをより深く知るきっかけになった体験、今まで知らなかった世の中の現実を身をもって学んだ貴重な経験、ととらえれば良いのではないかと思います。一度こういう経験をすると(もしかしたら何度か同じパターンを繰り返してから気づくかもしれませんが)、自分というものがだんだんわかってきます。そして、世の中にはこういう人もいるのだなということも学び、身の処し方を学習します。

 この世は様々な波長の人が、ごっちゃまぜに存在しています。自分がどんな場所、どんな人と波長が合って、どんなことを本当はしたいと思っているのか。そういうことは、いろんな人と出会って、ウマが合ったり合わなかったりということを身をもって経験して、だんだんにわかっていくものです。それに、ある特定の人とはどうがんばっても波長が合わないということも、ごく自然に起こり得ることです。そういう人とはどういう距離感で付き合うのが良いのか、どうしたらお互いを傷つけずにうまくかわせるか、自分の中でどのように折り合いをつけていけば良いか、そういうことも、全て経験から学んでいくことです。

 

 中学生の部活は、根性論がまだまだ支配的なんだなと感じることが多いです。何十年も昔と変わっていないことが驚きです。でも、世の中や人々の意識は変化していっています。今の中学生も、私達が中学生だった頃とはだいぶ違う部分があります。繊細で、大人より物事をわかっているなと感じる子も多いです。そういう子は、普通に話せばちゃんと理解できるし、大人のことを冷静に見ているので、幼稚な振る舞いには拒否反応を起こします。それなのに、親や先生世代が昔の気質をそのまま引きずり、怒鳴ったり威圧したりすることがマイナスにしかならない子供にまでスポコン指導で接しているのを見ると、空回りしているのがどうしてわからないのだろうかと虚しくなりますし、羽をむしられている子供が気の毒になります。

 もちろん、昔ながらのスポ根気質にぴったりはまる人はそれで良いのかもしれませんが、違うなと感じる人まで、無理して自分を合わせる必要は1mmもないと思います。そんな環境に身を置いて、精神を蝕み、生きる気力までも失われるくらいなら、絶対に絶対に逃げた方が良いです。所属しているグループから出るというのは、本当にエネルギーが必要なことで、勇気と決断と相当な意思力もいります。誰か支えてくれる人がいると心強いです。自分を自由にしてあげた勇気をむしろ褒めてくれる大人がいれば、罪悪感を感じずに済むかもしれません。

 

 今の中学生に、不登校が増えているのも、世の中に対するメッセージなのではないかと感じています。昔から変わらない、同じやり方で、子供達を一緒くたに教育するやり方に、ひずみが出てきているのではないのかなと思います。

 合う子もいるかもしれないけれど、合わない子もいる。合わない子がはじかれてしまい、不必要な劣等感や自己嫌悪を抱くことがないように、個性が大事にされ、子供の選択を大人がサポートしてあげられるような環境が整っていけばいいなと思います。

 今の教育制度が悪いとか、そういう風には思いません。例えば我が家の子供達は、かつての私と違って学校が好きで、生き生きと通っています。親としても、本当に学校ってありがたい、日本の教育は素晴らしいと思うことがたくさんあります。けれど、学校という組織に馴染まない子供がいることも事実ですし、そういうお子さん達が辛い思いをしているのを見ると、私も辛くなります。

 私は今年PTAをしているので、時々子供の学校に行くのですが、自習室という教室の前を通ると、必ず毎回、数人のお子さん達がいます。教室に入ることができずに、一日を自習室で過ごすのです。私自身も、学校が好きではなかったので、教室に行くのに勇気がいる気持ちがわかります。中には、自習室にさえ行けずに、ずっと家にいるお子さんもいます。私は、そういう子達に、本当は声をかけて励ましてあげたいのですが、そんな立場ではないしきっと望まれてもいないので、ただ心の中でエールを送って通り過ぎるだけです。

 学校という組織や、今の教育制度が、どうしても合わない人がいるのも、自然なことだと思うのです。学校や今の教育制度を糾弾するつもりはなく、むしろありがたいと思っているのですが、合わない子に対する救済制度が、もっと充実したら良いなと思います。合わないということは、自然の摂理として起こっていることで、怠惰でも罪でもありません。努力したけれどダメだったことなど、誰にでも経験があると思います。自分に嘘をついてまで、何かに無理やり合わせることは本当に苦痛です。逃げ道は、用意されているものだと思います。罪悪感を感じずに、勇気をもってそちらに踏み出してみたら、案外すんなり進めたりするかもしれません。

 

理想の指導者

 自分自身や、自分の内なる声に対する信頼感が低かった時。私にとって理想の”先生”は、私がどのような道を進むべきか、アグレッシブに助言をしてくれるタイプの人でした。あなたはこういう人なんだから、こういう事をした方が良い。あなたの使命は○○なのだから、この道に進みなさい。こういう方法でやりなさい。そんな風に、具体的にハッキリと、道を示してくれるような人に惹かれていました。そして、その先生の下で、その先生の助言に従い、その先生のやり方を踏襲することで安心感と自信を得ていました。

 今振り返ってみれば、自分自身で考え、道を切り開いていく勇気がなかったのだと思います。誰かに依存することで、安心とそこそこの成功は約束されていたかもしれないけれど、その分自由と個性と成長は制限されていました。力を持つ人の門下に入れば、その知名度や影響力の恩恵を受けて、自分もある程度活躍の場が持てたりします。けれどその分、師匠に対する絶対服従は逃れられないし(意見をするなどもってのほか)、決められたやり方から外れるようなことができないので、次第に窮屈さを感じるようになるのです。また、自力で考えたり、大きな挑戦をすることがない状況というのは、失敗がない分、学びも少ないです。安定と安心が一番だと考える人もいるのかもしれませんが、私には、自由と変化が限られた環境は耐えられませんでした。

 

 

 今の私が感じる理想の指導者は、決して自分のやり方や考えを押し付けないタイプの人です。相手の成長と幸せを心から望むのであれば、自分に服従させることではなく、その人が個性と能力を最大限に花開かせられるような、自由な環境を与えるはずです。適度に助言を与えつつ、最終的にはその人が自立できる道へと導いてあげるのが、真の指導者だと思います。

 誰もが、本当は自分の望みが何なのか、心の底では知っています。悩んだ時、迷った時も、本当は、答えはその人の中にあります。誰かに教えてもらう必要はないのです。指導者ができることというのは、テクニカルなコツを教えてあげること、希望を持たせてあげること、励まし背中を押してあげること、そして最後に手を放してあげること。そんなものではないかと思います。

 

 自由ほど尊いものはないし、その自由を相手に与えられるかどうかは、その人の魂の成長レベルと心の広さにかかっているように思います。賞賛と金銭に目がくらみ、自分を頂点としたヒエラルキーを造り上げることに執心している指導者は、欲とエゴに憑りつかれています。与えられた力をどのように使うかが、人間として試されている部分かと思います。

 

 

 

知ることの大切さ

 これまで、「サイコパス」と「ナルシスト」について書いてきましたが、それぞれ程度の差や性格的な特徴などは個人差があります。また、サイコパスなどは先天的な要因も大きいですが、育った環境によっては、上手く社会に適応できている場合もありますし、表に出ている状態は様々かと思います。

 

 また、サイコパスと一見誤解されてしまいそうなタイプとして、アスペルガー症候群等があります。アスペルガーの方は、一般に共感能力が低く、コミュニケーションが苦手であるといわれますが、良心が欠如しているわけではありません。生まれつき良心を持たないサイコパスとは、そこが大きく違います。

 

 

 私がこのブログでこういったお話をするには、理由があります。それは、知るということは、受け入れることにつながるからです。それから、相手を知れば、自分がどのように振る舞えば良いのか、どのような関係でいることが賢い選択なのか、判断がしやすくなります。最近、サイコパスやソシオパス、発達障害といった心理学用語が、広く認知されるようになってきました。大人になってから、自分が発達障害であったことに気づき、それまで自分でも不可解だった自分自身への理解が深まった、という方もいます。また、家族やパートナー、親しく接している人がそういうタイプだったことを知り、それまで理解することができずに苦しんでいたけれど、適切な接し方がわかって関係性が良くなった、というケースもたくさんあります。

 

 

 このブログを読んでくださっている方は、繊細で気持ちが優しく、エネルギーに敏感なタイプが多いかと思います。そういう方というのは、サイコパスやナルシストのような強いエネルギーを放つ人を目の前にした時、よほど自分の軸を保っていないと、簡単にエネルギーを持っていかれる危険性があります。相手の強い渦に巻き込まれないためにも、まずは「知る」ということが大事かと思います。世の中には、自分の欲望を満たす為に他人を平気で利用する人が存在すること、そしてそういう人は、簡単に騙されてしまう心優しい、少し自分に自信がない人達を終始ハンティングしている(自分になびかせる術を心得ている)こと、一度餌食になるとなかなかマインドコントロールから抜け出せなくなること。

 少なくとも、知識があれば、いざそんな人が現れたとしても、自分の中で危険信号が灯り、”危ないよ。距離を置いた方がいい”と内なる声が教えてくれるかもしれません。

 

 あとはやはり、自分軸をしっかり保つ努力はした方が良いと思います。私もそうでしたが、自分の中で確たる自信が定まっていないと、誰か強い人に導いてもらいたい、という気持ちを抱きがちですし、そうした方が楽だったりもします。誰かが言うことに無条件に従っていればいい状態というのは、あれこれ考えたり悩んだりする必要がないし、心強かったりもします。けれど、自分を抜きにして他者に合わせ続けていると、必ずどこかで違和感を感じることが出てきますし、成長も限定的なものになってしまいます。自由と飛躍を心から望んでいるのであれば、誰かの言うことを聞いていさえすればいい、誰かのマネをしていればいい、という制限された環境は、いずれ窮屈に感じるようになっていきます。

 何かを学ぶ時、先生や師匠の下で学ぶことはもちろん有意義なことかもしれませんが、自分を全て明け渡す必要はありません。そもそも、本物の”先生”であれば、決して弟子を自分の思うように利用するようなことはしないはずです。一見、いかにも弟子のことを最優先に考えているように見せていても、実は自分が神のように崇められることで優越感に浸っている人もいます。そういう人は、いつかどこかでボロが出ます。見抜く目を持っていれば、しばらく一緒に過ごせば気づくはずです。

 

 習っていた先生が、弟子達の崇拝を受けるうちに、気分が良くなり、どんどんエゴが肥大化していく様を目の当たりにしたこともあります。人に何かを教える立場の人というのは、よくよく気を付けなければ、いとも簡単に蛇の道に転げ落ちる危険性があります。

 

 

 自分が騙す方にも騙される方にもならないように、人とは適切な距離を保って接する。どうにもならない状況からは、潔く身を引く。どうにもならない人とは、縁を切る(同情心からずるずる付き合っても、双方の為にならない)。相手を変えようとしない。責めるのではなく、理解しようと努める。どうしても逃れられない状況であれば、ポリティカリーコレクトなやり方で、主張や抗議をする。相手が抱えている問題は、相手のもの。そこに自分が絡んでいたとしても、それは相手の問題なので、個人的に受け取らない。自分は自分の問題だけにフォーカスしていればよい。

 

 現実世界を上手に乗り切るために、こんな感覚で人との関係性をとらえるようにしています。

 

 

ナルシスト

 前回のブログでは、サイコパスについて紹介しました。サイコパスに一見似ているタイプとして、「ナルシスト」があります。サイコパスと共通しているところは、

 

●自己中心的で、自尊心が強い

●自分の欲求を満たすことに労力を惜しまない

 

 あたりかと思われます。サイコパスと違うのは、ナルシストタイプは感情が人並みにあり、良心も持ち合わせていることです。後悔や葛藤を感じ、内面的には実は苦しんでいる所がサイコパスと大きく異なります。また、サイコパスが自分の目的を達成するために手段を選ばないのに対し、ナルシストはある程度常識の範囲内で行動します。自分がかわいいので、批判されたり世間からブロックされることは根本的に恐れています。ただし、自分がかわいい余り周囲が見えなくなっていることもあるので、普通の感覚では考えられないような、突拍子もない言動をとることも時々見受けられるかもしれません。これは、人を傷つけるのが平気なわけではなくて(サイコパスはここが平気)、気づいていないか、見えていないだけです。

 

 ナルシストタイプの人は、人生のどこかの時期において、自尊心を傷つけられたり、自信を失うような経験をしています。と同時に、心の中で「自分は本当はこんな扱いを受ける人間じゃない。自分の人生はこんなことで終わるはずがない」という思いを抱いています。傷ついたプライドと、肥大化したプライドが共存している状態です。そして、再び人生のどこかの段階で、自分のプライドを奪回させられるようなチャンスに出会った時、それまで眠っていた、”自分をもっと認めてほしい”欲求が爆発するのです。

 

 ナルシストが持つ自信には、傍から見ると根拠がないものがほとんどです。一体なぜこの人は、こんなに自分に自信をもっているのか、一体何がすごいのか、他人からしてみれば「さほど大したことない」程度のことであっても、ナルシストはその空虚な自信を生きるよすがにしています。また、容姿はそこそこだったり、良くても人並みより少し上くらいであることが多いのですが、ナルシストは、自分は容姿が大きな武器で、この上なく魅力的であるという幻想に浸っています。

 その他の能力も、ずば抜けて優れていることは稀で、大概メインストリームで活躍していることはありません。ナルシストは基本的に謙虚さが足りないので、さほど努力をせず、自分を客観的に分析する能力もないので、実力も名声もある程度のレベルまでしかいかないものです。

 華やかな世界や、人の上に立つポジションに憧れるので、講師業やインストラクター、タレント(二流以下の)、ヒーラーもどき、飲食業、などによく見受けられます。またヒモやヒモ的な生活を送っている人にも、このタイプが多いようです。いつまでも非現実的な夢を追い続け、自力で生活ができていないのに、「自分はこんなもんじゃない」と言い続けたり、実現不可能な将来設計をとうとうと語るような人です。

 

 ナルシストは、冷静な目で見れば、自分が見えていない、エゴが肥大化した虚しい人物なのですが、どういうわけかその空虚な自信に惹かれ、吸い寄せられるように近づいてしまう人がいるのも事実です。かくいう私も、過去何回か、ナルシストタイプの”先生”にエネルギーを吸い取られた経験があります。

 

 ナルシストに引っかかってしまうタイプにも、特徴があるように思います。

 

●優しい

●エネルギーに敏感(憑依体質)

●人が言うことをすぐに信じてしまう

●自分や自分の考えに自信がない

●人に尽くすことで充足感、あるいは安心感を得られる

●向上心はあるのだけれど、1人で切り開いていく勇気がない

●誰か強い人についていけば、自分の人生が好転するだろうと期待している

●判断を他人に委ねがち。または、他人に決めてもらわないと行動できない

 

 このようなところでしょうか。ナルシストは、自信がなく、共依存体質で、誰かに自分を認めてもらいたがっている人を見つけると、甘い言葉や時には強い言葉を使って、巧みに自分サイドに引き込もうとします。一方で、どういうタイプなら騙せるかということに関しては勘が鋭く働くので、騙せないタイプと知ると、サッと手を引きます。

 

 ナルシストが苦手なタイプは、自信があり、現実的で、自分の考えをしっかり持っている、軸が定まった人です。そういう人には、自分の弱さや足りない部分を見破られることを知っており、どこかで恐れているのでしょう。

 ですから、ナルシストにうっかりハマらないためには、自分がそのような人物になれば良いわけです。

 

 私が過去に、ナルシストから自分を解放できたのも、自分の「軸」がだいぶ固まってきた頃でした。そして、ナルシスト先生の矛盾に気づき始め、次第に違和感を覚えるようになっていったのです。ナルシストは、常に自分が一番でいたいので、弟子が自分より秀でたり、自分よりちやほやされるような状況は決して認めたがりません。指導を受けながら、そこはずっと牽制されているのを感じていました。要所要所で、聞いてもいない過去の自慢話をふってきたり、「あなたは私の下」というニュアンスの言葉を使ってきました。そして、私が先生の矛盾しているセリフを指摘した際、それまで見たこともない程動揺し、赤面して早口で言い訳をまくしたてました。それは支離滅裂で、論点も定まらない、まるで子供のような言い訳でした。ナルシストがボロを見せる時というのは、人物が違っても、おかしいくらい似ていました。

 

 私はこういうレッスンを何度か経験して、ようやく自分の弱さと、真の意味で自信を持つということの大切さを学びました。それから、人を見る目も養われました。今では、なぜか自信たっぷりな人を見かけても動揺することはありません。本当に自信がある人は、決してそれを表に出そうとしないことを知っているからです。そして、魂が磨かれていけばいくほど、人は謙虚になります。自分をよく見せようとしていたり、プライドや威圧感が前面に出ているということは、その人がまだ未熟で、心が満たされていないという証拠です。

 

 私は決して、ナルシストを責めるつもりはありません。その人なりの苦しみや悲しみがあることも知りました。彼らも、何かを学んでいる最中なのでしょう。ただ、私はもう、そういう人とは距離を置き、できるだけ関わらないようにしています。

 過去にそういった人と関わった自分を責めた時期もありまし、仕返しをしたいくらいの怒りを抱いていたこともありましたが、今ではどの経験も大切なレッスンだったと思えるようになりました。あの経験がなかったら、またどこかで同じような人といびつな関係性で繋がってしまっていたかもしれません。人を頼り過ぎず、内なる声を信頼しさえすれば、何も怖くないのだということも、紆余曲折を経てきたからこそ、たどり着いた答えです。

 

 もし、そういう人と出会ったことがあったり、今現在関わっている方がいたら、私が経験から学んだことが少しでも気づきの助けとなれば幸いです。

 

 

サイコパス

 「サイコパス」。割と最近、耳にすることが増えてきた言葉かもしれません。

 

 サイコパスというのは、心理学用語で、ある特定の人格的特徴を持った人のことを言います。サイコパスの特徴としては、

 

●良心がない(先天的に欠如している)

●感情が薄い

●罪悪感や後悔の念を持たない

●自己中心的で、他人に同情することがない

●自分を守るためや、自分の利益を優先させるために、平気で嘘をついたり、人を騙したり傷つけたりする

●自尊心が高く、自分をよく見せるために手段を選ばない

●失敗したり責められても反省することがなく、平然と同じ行動をとり続ける

 

 といったようなことが挙げられます。脳の作りが普通の人とは異なるという、身体的な特徴も最近ではわかってきています。つまり、サイコパスというのは生まれながらにしてサイコパスなのであって、環境や教育次第でサイコパスを変えられるというものではないのです。社会の中に一定数(欧米では3~4%等といわれる)存在しているといわれ、私達の身近にも普通にいると考えられます。おそらく、どの人でも過去に一度や二度、サイコパスとは絡んだことがある(もしくは今現在関わっている)のではないでしょうか。

 

 サイコパスの人の中には、IQが高く、教師や弁護士、医者といった専門職に就いている人もいれば、社長やカリスマ経営者のような立場にいる人もたくさんいます。感情に動かされることなく、瞬時に冷静な判断がくだせるので、人を束ねたり、リーダーとなるのが得意な面もあるのです。また、サイコパスは比較的容姿に優れ、口達者で人を引き付ける魅力を持ち合わせている人が多かったりします。そういった人が悪の道に暴走してしまうと、カルト宗教のグルや、独裁者、凶悪犯罪者、詐欺師といった存在になりがちです。人を傷つけることを厭わず、他人は全員自分の駒としか見ていないので、どれだけの人が苦しもうが、どれだけの人に恨まれようが、自分が気持ちよければ、自分が得をすれば、それで全てOKなのがサイコパスの特徴です。

 また、サイコパスは決して自分を顧みたり反省することがないので、たとえ自分のとった行動が多くの人に批判され、普通の人なら立ち上がれないくらいの手ひどいバッシングを受けたとしても、驚くほど平然とまた社会に舞い戻ってきます。サイコパスには、そうした手打ちは全く意味をなしません。カエルの面に・・というくらい、世間からの叱責など気にも留めていないのです。おそらく、死ぬまでそれは変わりません。

 

 ここまで書いて、「あー、いるいるこういう人」と、何人かの有名人の顔が浮かんだかもしれません。しかし、サイコパスというのは、必ずしも社会の中で派手な地位に就いている人ばかりではありません。私達が日常的に接している人の中にも、十分サイコパスが紛れ込んでいる可能性はあります。私自身も、これまでに出会った人を振り返ってみると、幼少時から含め、数人思い当たります。

 こちらの良心を無残に裏切られ、びっくりするような仕打ちを受けたことが何回かあります。その時は、サイコパスという言葉も存在も知らなかったため、ただただ悲しく、ショックを受け、落ち込んだものです。そしてその後、どうしてあんな人を信じてしまったのだろうかと、自分を責めました。世の中には、このように平気で嘘をつき、人を騙し、そして全く罪悪感を抱くことのない人がいるのだ、と知りました。

 

 気持ちが優しく、奉仕の精神にあふれている人は、サイコパスの餌食になりやすいので、要注意です。

 

 サイコパスの人は、誰にも救えません。生まれてから死ぬまで変わらないのです。助けてあげたいとか、教えてあげたいとか、変えてあげたい等と思わない方が良いです。自分が消耗します。もしサイコパスと思われる人と関わっていたら、とにかく距離を置くこと。極力関わらないのが得策です。

 サイコパスの人は、人の感情は”理解”することはできませんが、知識や経験として”知る”ことはできるようです。例えば、怒りや悲しみを抱いている人がいたとしたら、一般的な場合、その感情を自分も同じように感じ、同情したりします。ところがサイコパスは、感情そのものを自分が感じることがほとんどありませんから、同じように”感じる”ことはできません。その代わり、「こういうことを言ったら人は”怒る”のだな」とか、「こういうことが起こると、人は”悲しむ”のだな」といったように、知識として感情を”知る”のです。そして、自分を優位に立たせるために、今度はその感情を上手く利用するようになっていきます。

 感情に自分が動かされることがありませんから、人が感情で動くということを経験で知った後は、とても冷静に、そして狡猾に、感情で人をコントロールしたり、打ちのめしたりして、自分の都合の良いように他人を操ろうとします。時には、涙を流したり、感動しているふりをしたりして、他人の同情を誘ったりもします。それは、「涙を流すと人は優しくしてくれる」「感動した様子を見せると、自分の味方になってくれる」という知識を上手く利用しているだけで、本当に悲しかったり感動しているわけではありません。

 

 気持ちが優しい人は、サイコパスのそういった狡猾さを、見抜く目を持ってください。残念な事実かもしれませんが、この世の中は、良心のかけらを持たない、こうした人が一定数存在しているのです。自分を守るために、そうした人から距離を置いてください。

 

 スピリチュアルな団体のグルを名乗っている人や、自己啓発系のセミナーを開いている人の中にも、サイコパスは潜んでいます。彼ら・彼女らは、気が弱く、自分に自信がなく、でも何か変わりたいと思っている人を利用するのが得意です。ある特定の手法を使って、耳に聞こえの良い言葉を使い、自分についてくれば幸せになれるよ、人生が好転するよ、お金持ちになれるよ、と上手に誘導していきます。または、敢えて恐怖心を煽るような脅しをかけてくることもあります。恐れが人を操る最も簡単なツールであることを知っているのです。自分に自信がない人は不安をたくさん抱えているものなので、そこを上手く利用しているのでしょう。そしてそういう人は、堂々とした振る舞いやカリスマに弱いということも知っていますので、自分を神のように見せたり、見た目や雰囲気を作ることに労力を使います。

 

 もし騙されたり、一時でもついていってしまった経験がある方も、どうぞご自分を責めないでください。人は経験しなければ本当の意味で学ぶことはできません。人生で起こるどんな出来事も、自分にとっては貴重なレッスンであり、成長のために必要なステップだったはずです。その経験を活かし、これからの人生と、社会に役立てていきましょう。

 

 それから最後に、サイコパスに一度でも痛い目にあわされたことがある経験がある方は、どうしてもゆるせない、という怒りの感情が湧いてくるかと思います。けれど、怒りは自分の意識を汚します。一銭の得にもなりません。サイコパスはサイコパスで、何らかの役割があってこの世に存在しています。彼ら・彼女らの存在を否定するのではなく、葛藤はあるかもしれませんが、存在自体は受け入れるようにしましょう。罪を憎んで人を憎まず。自分の受けた傷は自分で癒し、他人を恨まないようにしましょう。

 

 

勉強と読書にお勧めのエッセンス

 写真は、アラスカンの「イージーラーニング(Easy Learning)」というエッセンスです。

 

 私はいつも、読書をする前や、パソコン等で細かい作業をする前にこのエッセンスを飲みます。意識がクリアーになり、明晰さが得られるので、とても集中できるのです。気が散乱していたり、頭の中が落ち着かない状態だと、いざ集中したくてもなかなか難しいものです。けれどこのエッセンスを飲むと、不思議なことにスーッと気が一点に集中して、他の事に惑わされることなく、黙々と作業が進みます。集中し過ぎて、時間が経ったことにもすっかり気が付かず、いつの間にか外が暗くなっていた、ということもよくあります。

 

 このエッセンスは勉強にも大変お勧めです。我が家でも、娘の試験が近づくと、愛用のマグカップにお茶を淹れ、そこに数滴「イージーラーニング」を垂らします。集中力が高まるようで、他のことにあれこれ意識が向かず、”ゾーンに入った”ような状態になっているように見えます。

 

 

 気持ちがあちこちに飛んでしまい、”今”自分が何をしたら良いのか、頭の整理がつかない時などに飲むのも良いです。頭がクリアーになり、目の前にある、なすべきことに意識を集中させることができます。学習障害を持つお子さんにもお勧め、とエッセンスの説明にはあります。

 

 

念エネルギーの影響を受けないために

 私達人間は、社会的な生き物です。たった1人では生きていくことができず、生まれてからこの世を去る時まで、様々な人との関わりの中で生きています。何らかの形で関わりを持っている人とは、エネルギー的にも繋がりができているものです。見えないパイプの太さは様々ですが、一般的に、肉親や親しい関係性、もしくは会う頻度が高い人程、エネルギー的な繋がりも強くなりがちです。

 

 エネルギーに敏感な方は、自分のエネルギーフィールドに異質なものが入ってきた時や、誰とどのようなエネルギー的な繋がりができているかなど、普段から自然に感じることができているかと思います。何となくこの場所は良い感じがしないな、と最初に感じた場所でしばらく過ごしたりすると、体が重たく感じたり、頭痛がしたり、気分が悪くなったりすることはないでしょうか。また、とてもネガティブなエネルギーを発している人の近くにいった時、刺すようなマイナスエネルギーの刺激を”感じた”経験はないでしょうか。

 

 エネルギーの世界では、物理的に接触を持つことをせずとも、想念を飛ばしたり、サイキックな技術を使って相手のエネルギーフィールドをかき回すようなこともできてしまいます。良識的に考えて、他者を傷つけるようなエネルギーの使い方をするのはご法度なはずですが、この世にはそのような形で他人をエネルギー的にコントロールしようとする人が存在しているのも事実です。

 意識的に他人のエネルギーフィールドに侵入するようなサイキック能力を持たずとも、無意識的に念を飛ばしたりして、相手といびつな形で繋がってしまうこともあります。自分が加害者となる場合もありますし、被害にあうこともあるでしょう。

 

 少しおどろおどろしい話になりますが、この世にもういない人の想念が、特定の物や場所に宿っていることもあります。

 

 私達は見える世界と同時に、見えない世界の中にも存在しているので、できれば定期的に、自分のエネルギーフィールドをお掃除するのがお勧めです。様々な方法があるかと思いますが、私はやはり普段からフラワーエッセンスやアンジェリックエッセンスのお世話になることが多いです。

 特に、人の想念を取り除く力が強いと感じるのが、アンジェリックの『Shamanic Extraction』です。これを飲んでいると、普段から様々な場所で様々な人と関わりを持っていて、特定の人の念エネルギーがやってくることがあっても、それをはじき返してくれているのがわかります。

 これと一緒に、『Archangel Michael』や『Courage』を飲んでいれば、周囲の目や、誰かの思いに必要以上に振り回されることなく、自分の意思を貫きやすくなります。

 

 フラワーエッセンスが手元になかったら、一日の終わりに粗塩を入れたお風呂にゆっくりと浸かるだけでも、ネガティブなエネルギーはかなり出ていってくれます。また、瞑想をすると、自分のエネルギーフィールドがみえやすくなるので、自分が誰とどのようなパイプで繋がっているかなどを感じる事ができます。

 もし、誰か特定の人といびつな形で繋がってしまっていると感じ、その鎖を断ち切りたいと望むのであれば、やはり一番効果的なのは、その人と物理的な距離を置くことです。とにかく会わない。関わらない。電話やメールも、念が飛んでくるのでやめた方が良いです。エネルギー的に太いパイプで繋がっていると、離れた方が良くても、なぜか「離れる」という発想が湧かないことが多いので、ここは強い意志が必要です。実は、その人と離れる方法は存在しているのに、自分の顕在意識や恐れが、それはできない、と解釈してしまっているのです。いわゆる洗脳されている時というのは、そういう状態かと思います。

 

 私は、フラワーエッセンスの助けを借りたり、瞑想をするようになってから、必要以上に他人に振り回されることなく、本当の自分にとって望ましい選択は何なのか、だいぶ冷静に分析して判断できるようになってきました。誰かに依存したり、依存されたりすることは、本当は不自然な状態で、自分の意思で自由に選択できる状態が一番自然な形です。そのように自分の意思で選択していけば、スムーズに道が拓かれていきますし、自由でいることが、その人の能力を最大に開花させる条件でもあります。

 

親の器

 子供がまだ幼い頃、中学生や高校生くらいの大きなお子さんを持つお母さん達を見ると、

 

「あんなに大きくなったら、さぞかし手がかからなくて楽なんだろうなあ」

 

 と思っていました。そして実際、「お子さんが大きいと、手がかからくなって楽になりますか」と質問したりしていました。すると、大体似たような返事が返ってきたものです。

 

「物理的な世話は減るけど、精神的な負担が増える」

 

・・・自分の子供が思春期に入った今、その時のお母さん達の気持ちがとてもよくわかります。確かに、自分のことは大体自分でできるようになったので、母親としての物理的なお世話といえば、ご飯を作ることと洗濯をすることくらいで、小さかった頃に比べればものすごく負担は減っています。けれど、子供はもう、幼い頃のような能天気な世界にはいません。成長と共に、周囲のお友達や先生との関係、学校生活の中で出てくる問題、自分の将来に関する悩みなど、何かと心が揺さぶられる経験が増えてきます。そして、その都度こちらも心配し、気にかけ、親として何ができるかを考え、そして実行して(反発も受ける)・・と、小さい頃にはなかった心理的負担が生じるのです。

 人生で最も不安定な時期を過ごしている子供を受け止めるために、親としてドーンと構えていなければならないのだけれど、かといってこちらも親としては初めての経験なので、常に「これでいいのだろうか」「もしかしたら自分はものすごい間違いを犯しているのではないだろうか」といった疑問も拭えない状態です。

 

 それに、自分が子供だった頃と比べて、世の中も人の意識も、だいぶ変わっています。だから、かつて自分がこうだったからとか、普通はこういうものだからといった因習や常識も、今の時代や今の子供達には、あまり当てはまらないと感じています。子供自身が、そういう古い考えや決まりきったやり方の押しつけを嫌いますし、無理矢理大人のいうことをきかせようとしても、反発したりおかしくなったりして、うまく回らないことが多いです。

 

 最近、スポーツの世界でも、子供自身がとても生き生きと動いており、そして従来考えられなかったような素晴らしい成績を収めているチームを見ていると、束ねている監督さんが、子供の自主性を大事にして、あまり自分の考えを押し付けないようにされているのがわかります。そういう監督さんは、子供がどのような環境で潜在能力が開花するかをちゃんと理解されていて、その能力をつぶすことなく、いかに伸び伸びと実力を発揮できるかということに気を配っているようにみえます。子供自身が、それぞれ自分の考えを持ち、どのようにしていくのが良いかを本当は「知っている」のだと気づいているのだと思います。だから、大人が必要以上に口出しをしたり、子供の考えを押しつぶすような雰囲気を作らないように気を付けているのでしょう。

 

 ただし、いくら自分の意思をもつ子供であっても、ほったらかしにされたり、何をやっても許されるような環境に放り込まれたら、やる気も湧かないでしょうし、無秩序の中で混乱が起こります。ある程度の規律と、愛に基づいた叱咤激励は、子供が奮起したり頑張ろうという気持ちになるためには、必要不可欠なのかなと思います。根底では子供の能力を信頼して、大人が出過ぎることなく、伸び伸びとできる環境を作ってやりつつ、同時に適度な規律と緊張も持たせる。そういう匙加減が上手にできるような大人にならなければいけないと思っていますし、できればそういう大人が増えてほしいなとも思います。

 今はまだ、子供達を指導する立場にいる大人の中にも、昔ながらの一方的な教え方で、子供を威圧して恐怖心で抑え込もうとするようなタイプの方がたくさんいます。そういう関わり方をしている大人は、まず本当の意味で子供の心を掴むことができていないので、ある程度の所までは成績を伸ばすことができるかもしれませんが、限界があると思います。子供は委縮してしまうと、本来の力を最大限に発揮することができません。

 

 自分の子供が関わっている先生にこういうタイプがいると、自ら子供の才能をつぶしてしまっていることに気づかないのだろうかと、不思議に思い、教えてあげたくなってしまいます。けれど、親としてできることにも限界があります。相手を変えることはできないし、状況を全て変えることもできません。できる範囲で、できることをするしかないのです。

 子供がある程度大きくなってくると、そういう意味でも、親が口出し・手出しできる範囲がグンと小さくなってきます。自分の考えより、本人の選択と学びを尊重しなければいけない場面も増えてきます。人間として、精神的に鍛えられている時期なのだろうなと思います。

 

 

覚悟と勇気、そして忍耐

 うぶすなでは、お勧めのフラワーエッセンスをご紹介する際、バッチやパワーオブフラワー、オーストラリアンブッシュといった「お花」のバイブレーションが入っているフラワーエッセンスだけではなく、アンジェリックエッセンスも一緒にとることをお勧めすることが多いです。

 

 フラワーエッセンスには、ネガティブな感情や心の状態を和らげてくれる力があるので、一時的な感情の波が治まります。そうすると、物事を冷静な目で見ることができるようになり、目の前にある問題や現実に落ち着いて向き合えるようになります。今自分がどんな状態で、何が問題なのか、そして具体的に何をしたら良いのか、といった分析がしやすくなります。フラワーエッセンスを飲んだからといって、問題が消えてなくなるというわけではなく、問題に対処しやすくなる、という感じです。感情に支配されている状態では、問題を問題と認識することさえ難しいでしょう。フラワーエッセンスがもたらしてくれるのは、現実に向き合う力と、現実と上手に付き合っていく冷静さといえます。

 

 アンジェリックエッセンスは、フラワーエッセンスよりもバイブレーションが精妙で、人間の魂の領域に作用するといわれています。自分の身に降りかかってくる問題や悩みが、何かいつも似ているな、と感じるのであれば、それは魂のクセのようなものが引き寄せている可能性があります。もう解放されたと思っていたのに、再び似たような人と、似たような状況の下で、似たようなトラブルを抱えている・・そんなパターン化したサイクルから逃れられないような気がする時は、アンジェリックエッセンスを飲むことをお勧めします。自分の身に起こっている出来事の根本原因を、より深いレベルで癒すお手伝いをしてくれます。

 

 ただし、アンジェリックエッセンスを飲んだからといって、ただ何もしないうちに癒されたとか、気づいたら問題が解決していた、というようなことはまずないです(そうだったら楽でしょうけれど・・)。やはりそこにも、自分という存在に向き合う覚悟と、自分の内側を見つめる勇気が必要ですし、本来の自分に属さないものは徹底的に浄化し手放していくバイタリティ―も求められます。アンジェリックエッセンスを飲んでいると、自分の内側が見えやすくなります。明晰さが増し、気づきやすくなります。そして、もう手放したいと望んでいる場合、解放のプロセスをスムーズに導いてくれます。最短距離で導いてくれるようなイメージです。

 ですが、肝心の本人に、「変わりたい」「変わろう」という心構えができていない限り、いくらアンジェリックエッセンスを飲んだ所で、ほとんど変わらないか、表面的な変化が起こるにとどまります。

 

 あくまでエッセンスというのは(フラワーにせよアンジェリックにせよ)、準備ができた人のお手伝いをしてくれるものであって、大元にあるのは、その人の意思と決意なのだなと思います。

 

 人間の意識が変わっていく過程では、現象としても、様々な出来事が起こりやすくなります。そんな時、起こっている出来事に気持ちがゆすぶられたり、急な展開に圧倒されてしまったりと、心が動揺することも増えるでしょう。また、封印していた過去の記憶がパカッと蓋を開けたように出てきたりして、過去に受けた心の傷が再び痛みだすこともあるかもしれません。

 

 どうして今なのだろう、どうして私は今こんなに苦しまなくてはいけないのだろう。見たくないものは見ないまま、やり過ごすことはできないのだろうか。ずっと忘れていることはできないのだろうか。

 

 そんな風に思うかもしれません。辛くて逃げたくなるかもしれません。けれど、一度意識の覚醒が始まると、後にはもう戻れないものです。個人の力ではどうしようもない大きなうねりの中に、今私たちはいます。

 

 じゃあどうしたら楽になれるのだろうかというと、それはもう、「逃げないこと」。これしかありません。自分の元にやってきた大きな流れに逆らうのではなく、受け入れる。自分の内側からあふれ出てくる感情にも抵抗せず、出るがままに任せる。抵抗すれば、ますます大きくなるものです。拒むのではなく受け入れる。今目の前にある問題から目を逸らさずに、落ち着いて向き合う。そして、問題に向き合うと同時に、その問題を引き起こしている自分の内側も見つめてみる。この、内側を見つめる作業をしないうちは、いくら表面的に物事に対処していった所で、似たような問題が繰り返し起こることになります。

 

 現実的な問題に向き合いつつ、自分の内面にある闇や傷にも向き合い、癒し、浄化していく。このプロセスを、ただひたすら、淡々とこなしていく。求められるのは、勇気と忍耐です。

 

 意識の覚醒の途中でつらくなってしまったためか、フワフワした幻想の世界に逃げてしまって戻ってこられなくなっている方達もいますが、それはただの現実逃避といえます。いずれ現実に引き戻される時がやってくることでしょう。覚醒の道は孤独で地道な作業であり、夢見心地の空想世界で遊ぶ類のものではありません。

 

 己に向き合い、己の小ささを知り、謙虚に学ぶ。この姿勢を大切に、脇道にそれないように気を付けていきたいものです。

 

愛VS恐れと我欲

 ここ最近、世の中の動きを観察していると、以前にも増して、不正やごまかしなど、今まで埋もれていた隠し事が表面に出てくる事例が立て続けに起こっていると感じます。地球全体のエネルギー(波動)が上がってきているので、愛と対局にある、恐れや我欲に基づいた人々の動きがどんどん表面化し、禊が行われているようです。浄化のために、自然とあぶり出されてきているのでしょう。

 この傾向は、この先ますます大きくなると思われます。そういう流れのようです。

 

 これは、世の中全体の動きだけではなく、個人的な出来事としても起こっています。今まで自分の奥底にしまい込まれていた、恐れや不安、怒り、悲しみなどが、パカッと蓋が空いたかのように表に出てきている方が増えています。それは全て浄化のために出てきていることなので、これを機にしっかりと向き合い、自分を癒し、解放していくのが良いかと思います。一度そうなったら、もう元には戻れない(”気づかなかった”ことにはできない)ので、再び無理やり封印しようとしても、ものすごい抵抗が戻ってくるだけです。

 こうなった時に、自分の中から湧き出てくる諸々の感情を他人にぶつけようとしても、うまくいかないどころか、出したエネルギーが自分に戻ってくるだけなので、お勧めしません。「こうなったのは〇〇のせい」と、起こった出来事を自分以外の誰かのせいや、環境のせいにしたところで、本当の癒しは起こりません。一方で、もう自分に嘘をついて生きていくのはやめようと腹をくくり、今まで見ないようにしていた心の内面にきちんと向き合う勇気が持てた人には、見える世界&見えない世界からの強力な応援やサポートもやってきます。

 

 何かを始めようとする時、何かを決断する時にも、それが愛に基づいた選択であれば、たくさんのサポートがやってきて、まるで波に乗るかのようにスムーズに事が進んでいく、ということが起こりやすくなっています。反対に、恐れや我欲に基づいた選択であれば、上手くいかなかったり、妨害が入ったり、どんどん空回りして前に進めない状態が続いたり、場合によってはこっぴどいお仕置きが待っていたり、という状況が起こりがちです。このことは、何となく自覚されている方も多いのではないかと思います。

 私自身も、特に最近、このような「愛VS恐れ・我欲」の構造を目の当たりにする出来事が増えていて、結局根底に愛さえあれば、何も怖くないんだなという確信に至っています。例えば最近の例で言うと、娘の部活問題。本当に生徒のことを思いやったやり方ではなく、己のエゴを満たすために生徒を利用するような部活の運営は、結局うまく回らなくなるのだな、と感じています。そして、そんな部活で苦しんでいる中学生達を助けたい、何かできることがあったらしてあげたい、と望んでいたら、あちこちからたくさんの助けがやってきて、動かされるようにして動く流れになり、改善の方向に進んでいます。

 こんな風に、愛に基づいた願いを宇宙に放出していれば、パーフェクトなタイミングでチャンスがやってくるので、それが来たら(ピンときたら)すかさず行動に起こす。これを繰り返していれば、どんどん波に乗れて、どんどん望む方向に導かれていきます。ただし、何度も言いますが、恐れや我欲に基づいた願いは、大きな痛手を食らうことになりますので、十分気を付けてください。巷で売られている「引き寄せ」のツールを書いた本にも、そもそも我欲に基づいた内容のものが数多く含まれていますので、本物か嘘かを見極める眼力を持っていなければ、そちらに引っ張られて堕ちていく可能性があります。

 愛に基づいた引き寄せは、お金や名誉を求める引き寄せとはベクトルが違います。恐れや我欲に基づいた引き寄せは、いずれ必ず立ち行かなくなり、将来的に破滅の方向に向かっていくはずです。表面上のきらびやかな世界に惑わされることなく、芯をしっかり保って、自分の選択が愛からくるものなのか、それとも恐れや我欲からくるものなのか、どうぞご自身に問いかけながら進んで行ってください。

 

チャレンジを助けてくれるエッセンス

 長かった夏休みが終わりました。静かな家で、1人静かに過ごす時間がとても久しぶりな感じです。

 

 この夏休みは、子供関係のお仕事がいろいろとありました。今年は、上の子の学校のPTAや部活の保護者役員をやることになったため、何となくせわしなく動いています。中学校になったら、PTA活動や保護者の仕事は小学校と比べて減るのかなと勝手に思っていましたが、意外とそんなことはありませんでした。PTAの組織はむしろ小学校より堅固だし(これは学校によるのかもしれませんが)、活動している方達はとても熱心です。また、中学校になると仕事をしているお母さんの割合が一段と増えるため、私のような、日中比較的動ける人の負担が自然と増えることになるのは致し方ないことなのかもしれませんが、保護者の負担の不公平感は小学校よりも増えているように感じます。

 PTAのお仕事というのは、一体どこまで携わったら良いのか、今でもよくわからないなと思います。関わり方の度合いが、その人のやる気と状況と考え方等によって大きく変わってきますし、「ここまでやったら合格」といった明確な目標があるわけではありません。そもそも、任期は基本は1年間なので、なんだかよくわからないうちに気づいたら1年が経ってしまった、という感じでいつも終わってしまうように思います。

 

 ちなみに私はPTAのお仕事というのは決して嫌いではないのですが、いつもこの「どこまでやったらいいのか」という加減の部分でよくわからなくなり、引き受けた仕事をいい加減にできない性格も相まって、任期中は何となく気ぜわしくなり、心身ともに疲弊してしまうパターンがこれまでは多かったです。

 ただ今年は、やるからには楽しんでやろう、そして誰も責めないようにしよう、と心に決めているので、あまり心理的にモヤモヤすることなく、ポジティブに頑張れています。PTAのお仕事というのは、何をやるかということよりも(もちろんやっている内容も大切なことですが)、PTAに関わることによって得られる、先生や他の保護者とのコミュニケーションや情報の方が大きいような気がします。PTAを引き受けた年は何かと負担が増えるものですが、その分、やらなかったら得られなかったであろう目に見えない報酬がたくさんあります。それに気づいてからは、他の人に代わって仕事を引き受けることも全く苦にならなくなりましたし、自分の時間と労力を提供できることにありがたさを感じるようにもなりました。

 

 そんなわけで、自分のできる範囲で頑張ろうと決めたために今年はあれやこれやとやることが増えてしまったわけなのですが、結局増やしているのは自分なんじゃないかとも思いつつ、あと約半年だし後悔しないようにやりきろうと自分にはっぱをかけている状態です。

 特に部活に関しては、例年にない酷暑だった今年の夏、そのことでいろいろと心配している保護者の声が聞こえてきたこともあり、先生に対して保護者としての意見・要望を代表して伝えるようなこともありました。ただ感情的に訴えるだけでは効果がないかもしれないと思ったので、保護者のLINEグループをまず作り、ちょっと一体感を出してから、そこで皆さんの声を集めて、それをまとめて先生に提出するという形をとりました。やはり集団の声は強いです。保護者が1人でワーワー言っても、うるさい親だなで済まされてしまったかもしれませんが、保護者全体としての意見です、という形できちんとした書面で提出した所、訴えがきちんと通りました。

 今年になって、スポーツ庁から新しい部活のガイドラインが出されましたが、今部活というものが大きく見直される流れになってきています。かつては当たり前だったスポ根気質のやり方も、今のご時世と、今の子供達にはフィットしていないなと感じますし、そういう昔風の威圧的な指導法をごり押ししている先生方は、子供達の心が離れ、どんどん空回りしていっているように見えます。

 私が中学生だった頃も、部活という狭い世界の中で自分の持てる権威を最大限に振りかざし、ピュアで力のない中学生の心と体を傷つけている教師はいましたが、その頃は部活とはそういうものだと思っていたし、親が助けてくれるという発想もありませんでしたから、黙って耐えるしかありませんでした。

 しかし自分が親になって、自分の子供や他の子供達が似たようなシチュエーションの下、教師の一方的な(時には理不尽な)指令に歯向かうこともできず従っている姿をみると、大人としてできることがあれば助けてあげたい、という気持ちが湧いてきます。たまたま今年は役員という立場になったこともあり、いろいろと工夫しながらチャレンジしています。今自分がやっているやり方が正しいのかどうかもわかりませんが、理不尽なことを黙って見過ごすことができない性格なため、直観を信じて、他の保護者の方達の協力も仰ぎつつ、時代に合った部活の指導方法を模索して頂くよう、これからも訴えていこうと思います。

 

 

 とこんな状況ですが、フラワーエッセンスにもたくさん助けてもらっています。特に心から感謝したいのが、アンジェリックの「Archangel Michael(大天使ミカエル)」。時には先生に面と向かって意見を伝えなければいけないシチュエーションもあるのですが、そんな時に勇気と力を与えてもらっている気がします。自分でも話しながら、「あれ、私よくこんなことが言えるな」と驚くことがあります。こんな時は、バックで自分を支えてくれる存在を感じますし、言っているのが自分であって自分ではないような感覚があります(言わされているような感じ)。うぶすなでのセッション中でもよくあることなのですが、この”言わされている感じ”になっている時は、自分の口から言葉が自然に出てくるに任せていると、相手の心にスーッと響いていくのがわかります。

 それから、意思をもって行動する時には、周りの反応とか、自分に返ってくる否定的な念などが気になって不安に陥ってしまうものですが、そういう不安も払拭してもらっている感じがします。不安があると、ともすればその裏返しで攻撃的になってしまう危険性があります。決して自分自身もモンスターになってしまわないよう、細心の注意を払って、冷静な判断と行動を心がけていこうと思っています。

 

恥とフラワーエッセンス

 アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、著書『菊と刀』において、日本は「恥の文化」であると述べました。キリスト教世界である西欧が「罪の文化」(個々人の内面に”神”がいて、良心に逸れた行動を”罪”と考える)であるのに対し、多神教がベースである日本は、絶対的な”神”より、世間からどう見られるか、という周囲の目を気にしている、とのことです。

 確かに日本人は、個人的にどうしたいか、どう思うかよりも、周囲が自分に何を求めているか、何を期待しているかを気にして、それを行動のベースにしていることが多いような気がします。周囲の期待に背いた行動をとっている人が批判され、世間一般的な常識から外れた考え方を持つ人が異端視されることが多いのも、日本人は個性を前面に出すより、協調性を重視する傾向があるからかもしれません。

 そんな社会的風潮がある中で、周囲の目を気にして生きることが当たり前として育った人が、オリジナリティを発揮して自分独自の個性を花開かせることは至難の業ともいえます。よほどの強い意志と、逆風が吹いても負けない根気強さが必要です。また、ある程度「鈍感力」もあった方が助けになるのかなとも思います。誰がこう言った、ああ言われた、非難された、よく見られていない、云々を気にしていると、やりたいことにも思い切ってチャレンジできませんし、たくさんの制限をつくることになります。制限は、周囲からやってくるようで、実は自分がつくりだしているものです。意思と決意さえしっかり持っていれば、周囲の目や声というものは、実はたいした力を持つものではないことに気づきます。

 

 

 我が家には思春期の女子がいるのですが、思春期というのは特に、この「周りからどう見られているか」という感覚が強くなる時期のようです。周囲から浮くことや孤立することを極端に恐れており、そうならないために、個人的な主張を極力抑え、周りの友達に合わせることにかなりのエネルギーを注いでいます(個人差はありますが)。

 当然、日本人特有の”恥”の感覚も持ち合わせているので、「そんな恥ずかしい事はできない」とか、「そんなことしたら変な目で見られる」、「そんなことは誰もしてない」等々、”恥”をかかないための気遣いも大変そうです。

 

 娘もご多分に漏れず、一般的な思春期女子の感覚の持ち主なので、今現在は、あれこれと制限があるやや不自由な環境の中に生きているようにみえます。思い返せば自分もかつてはそういう時期があったし、今でも全く周囲の目を気にしないかと言うとそんなことはないので、ある程度縛られて生きるのは人間の性なのかなとも思います。

 ただ、必要以上に周りの目を意識し過ぎるのは窮屈ですし、ともすれば自意識過剰に傾きがちなこの時期、フラワーエッセンスにも何かとお世話になっています。例えば今、娘のトリートメントボトルにはオーストラリアンブッシュの「ビリーゴウトプラム」とアンジェリックの「Shame Free」を入れています。前者は、自分の肉体や容姿を嫌悪する人のためのエッセンスで、後者はその名の通り、「恥ずかしい」という感覚を癒すものです。これを飲むようになって、だいぶ細かいことであれこれと気にすることが減ったな、と感じます。例えば、ものすごく近くに寄ってジーっと見ない限り気づかない程度の小さな傷跡やできものなどを、必要以上に気にして「これどうしよう」と言ってくることがなくなりましたし、日焼けの線が恥ずかしくてサンダルが履けなかったのが履けるようになったり、着る服を気にし過ぎて何を着たら良いかわからなくなってしまうことも減り、着たい服を好きなように着るようになりました。

 また、今度英語の弁論大会に出ることになったのですが、その練習の時に、恥ずかしくてパッションを全面に出して表現することができなかったのが、思い切って表現することができるようになりました。

 

 日本人は特に、DNAの中に”恥”の意識が刷り込まれている民族なので、自分の中にどれだけこの”恥”の感覚が住み着いているのか、一度客観的に見てみるといいかもしれません。冷静に眺めてみると、”恥”とは実体のない魔物であり、周囲の目も周囲の期待も、全て幻であることがわかります。

 

 ところで、冒頭で紹介した文化人類学上の名著『菊と刀』を書きあげたルース・ベネディクトさんですが、なんと日本には一度も行ったことがなかったのだそうで、それを知った時に私は卒倒しそうなくらい驚いたものです。日本を訪れたことがない人に、なぜこれほどまで深い洞察の日本人論が書けるのか・・チャネリングでもしていたのでしょうか。

 それはさておき、日本人の民族的特性を調べる研究は、第二次世界大戦中に行われました。敵国である日本を知り、終戦後に占領下に置いた際、日本人をどのように扱うかという計画の参考にするためだったそうです。こう聞くと、完全に日本は手玉に取られていたようで悲しいものがあります。

 ただ日本や日本人も、第二次世界大戦の時代と比べると大きく変わってきていますし、多様性や個性もかなり尊重されるようになってきたように感じています。元々柔軟性もある日本人なので、より多くの人が生きやすい世の中になっていってほしいなと思います。

 

自己犠牲タイプの方は

 先日、残り少なくなってきたエッセンスを何本かまとめて発注しました。その中に、オーストラリアンブッシュの「アルパインミントブッシュ」というエッセンスがあります。

 

 到着してからエッセンス棚に並べようとしたら、なんと既に在庫として陳列していたことに気づきました。少し前に発注していたことをすっかり忘れていたのです。よほど私に必要なエッセンスなのでしょうか。

 

 アルパインミントブッシュは、他者のケアを優先させるあまり、自分のケアがおろそかになったり、バーンアウトしてしまったりしがちな人を癒すエッセンスです。ヒーリングや福祉関係のお仕事に就いている方や、育児や介護、看病などに時間と労力をとられている人など、他者への責任を負うことが多い人に最適です。

 お世話を必要としている人を助けることや、困っている人の役に立つことはとても尊い仕事ですが、やり過ぎて自分のエネルギーが枯渇してしまったり、気力や体力の限界まで頑張って参ってしまっては、元も子もありません。時には休んでリチャージすることも大切ですし、バランスをとりながら自分のケアもきちんと行っていくのが、長続きする秘訣かと思います。

 

 特に、人の役に立ちたいという思いが強い方は、できるだけ多くの人を助けようとするあまり、どんどん忙しくなり、プライベートの時間を犠牲にするような状況に陥ってしまうことがあります。癒しのお仕事に就いている方であれば、クライアントさんが必要以上に依存してきたりといった、共依存の関係にはまってしまう危険性もあります。

 また、「人に頼られている=自分が存在している価値がある」という無意識の思い込みがある場合、自分の価値を確認する手段として、”私がいなければだめ”という状況を創り出していることもあります。

 休む間もない程スケジュールがびっちりで、休むことに罪悪感があったり、忙しいということはそれだけ世の中から求められている証拠だという思いがあるような方は、少し立ち止まって、今の状況が本当に自分が望んでいる状況なのかどうか、問いかけてみると良いかもしれません(アルパインミントブッシュを飲みながら)。

 

 

 ちなみに私がこのエッセンスを飲んでみたところ、夏休み中、息子の友人達が遊びにきた時、家のリビングを使ってもいいけど1時間までにしてね、と言うことができました。今流行りのゲームを、テレビの大画面を使って遊びたがるのですが、テレビはリビングにあるので、息子達が遊んでいる間、私は別の部屋でしか作業ができません(とてもうるさいので・・)。アルパインミントブッシュを飲んでいたところ、ふと、「あれ、なんで今まで息子達にこんなに気を遣って遠慮していたんだろう」という思いが湧いてきました。考えてみたら、彼らがゲームをやるために、私が何時間もリビングを明け渡す必要もないわけです。

 提案してみると、案外息子もすんなり了承し、約束の時間になったらさっさと二階へ移動してくれました。

 

 無意識に抱いている思い込みというのは、その思い込みがあるということに客観的に気づいてみると、「どうしてあんな風に思っていたんだろう」と不思議に思うものです。人は、とらわれている間は、とらわれているという事実になかなか気が付かないのです。フラワーエッセンスは、こんな風に、人がとらわれている状況から抜け出すお手伝いをしてくれます。

 

酷暑のさなかのエッセンス

 フラワーエッセンスをご愛用の方は、エネルギーに敏感なタイプが多いようです。そのためか、”バリアー・プロテクション系”や”浄化・クリアリング系”のエッセンスが自然と人気になっています。うぶすなでも、よくそういったエッセンスのリクエストを頂きます。

 様々なメーカーさんが、バリアー系、浄化系エッセンスを扱っています。単品のエッセンスもありますし、数種類がミックスされているコンビネーションタイプもあります。

 それぞれ好みや相性などもあると思いますので、ピンときたものや、一度使ってみて効果を体感したものなどを選ぶといいかもしれません。

 

 私も、個人的にブレンドしたバリアー系のエッセンス、浄化系のエッセンスを常備しているのですが、両方共ほぼ毎日のようにお世話になっています。どこかに出かける前は、必ずバリアー系エッセンスを飲みます。これを飲んで行った日と飲まなかった日とでは、帰ってきてからの自分の状態がが全く異なります。フラワーエッセンスに出会う前は、人混みや様々な人が交わる場所に行った後には、必ずと言ってよいほど体が重くなったり、頭痛がしたり、気分が悪くなったりしていたのですが、バリアーのエッセンスを飲んで行くとそういうことがありません。自分がエネルギーフィールドの中で守られている感覚があります。

 また、バリアー系を飲んで行くのを忘れて出かけた際、少し重たいエネルギーがついてしまったなと感じても、浄化系のエッセンスを飲むとスーッと軽くなって、気分がスッキリします。何かショッキングな体験をしたり、見たり聞いたりした時、頭の中に焼き付いた映像が離れなかったり、誰かの言葉や念などが突き刺さって取れていないように感じる時などにも、浄化系のエッセンスは助けてくれます。

 

 最近は酷暑が続いているので、新しく作ったバリアー系のトリートメントボトルに、オーストラリアンブッシュの「ムラムラ」を入れています。これは、”火”にまつわるトラウマや、火傷、日焼け、ほてりなどに対応してくれるエッセンスで、強い日ざしを受ける前に飲んで行くと、そのダメージを直で受けるのを防いでくれる感覚があります。ワークショップの時にも、フィールドワークに出かける直前、イアンさんが参加者たちに、「皆さん、今日は暑いので”ムラムラ”を飲んで行くのを忘れないで!」とおっしゃっていました。

 私は暑さが苦手で、例年この季節になると外出するのが億劫になっていたのですが、ムラムラを飲むようになったら、不思議とこの猛暑のさなかでも、外に出るのがさほど苦痛ではなくなりました。強い日差しを浴びても、なぜか耐えられるというか、ダメージが少ない感覚があるのです。苦痛が軽減されている感じです。そのためか、最近会う人会う人に、「日焼けしましたね」と言われます。「綺麗に焼けていますね」とも言われます。そういえば、日焼けで赤く腫れることもなくなりました。(一応日焼け止めは塗っていますが)

 また、中学生の娘はとてもハードな運動部に入っているので、親としては熱中症にならないか心配です。一日中外で試合がある日などには、必ず水筒にムラムラを入れるようにしています。本人に「最近暑いけど大丈夫?」と聞いてみたら、「そんなに暑いっけ?」との答え。暑さの影響を和らげてくれるエッセンスを入れていることを伝えたら、「そういえば、暑いは暑いんだけど、辛いとかもう嫌だとかは思わない」とのことです。

 エネルギーフィールドでバリアーが張られていると、肉体レベルでもダメージが少なくなるのだなと思います。

 

 ちなみに浄化系のエッセンスは、家族全員のトリートメントボトルにそれぞれ必ず入れています。仕事や学校などで、日々様々な人と関わっていろんな経験をしていると思いますが、家に帰ってきた時は一度リフレッシュして、また次の日へのエネルギーをチャージしてほしいなと思うからです。ただいまと帰ってきた時に、少しキツイ目をしているなと感じた時でも、エッセンスを飲んでしばらくすると、少しずつ表情が和らいでいくのがわかります。

 

オーストラリアンブッシュワークショップ報告②

 ワークショップ二日目には、屋外に出て自然を感じるフィールドワークも行いました。ワークショップの主催者ネイチャーワールドさんの建物から歩いて数分の所にある、とても気持ちの良い緑道です。

 そこでしばらくお散歩(?)をした後、涼しい木陰がある場所で、イアンさんが自然界と自然霊の話をしてくださいました。

 

 イアンさんによると、数年前くらいから、自然界と人間界との間にあったヴェールが薄らいできているのだそうです。今の時代に生きている私たちは、数十年前と比べると格段に自然界(霊)とのコンタクトがとりやすくなっているとのこと。

 庭仕事の途中に精霊に出会ったという、イアンさんの友人の話など興味深かったです。その友人は、下半身が獣で上半身が人間の姿をした精霊が歩いているのを見たそうなのですが、その精霊と目が合った時、向こうは自分の姿が見えていることに驚き、一度通り過ぎようとしたけれど再び戻ってきて、『オレの姿が見えるのか?』と聞いてきたのだそうです。

 

 イアンさん自身も、たくさんの自然霊の協力を得てエッセンス作りをしています。諸々の自然霊を引き連れて歩いているような人なので、フィールドワークの時にもそうした存在が背後で協力してくれているのを感じました。

 フィールドワークの最後の方で、”スピリチュアル・グリーティング”という祈りの言葉を全員で唱えたのですが、その祈りを唱えた後、自然界や精霊界との境界線がフワッと薄れたのを感じました。各々の木には精霊が宿り、鳥たちの鳴き声にはメッセージが込められ、風は何かを運んできてくれている・・・そんな自然界が発しているバイブレーションを、感じようとしてこなかったのは人間の方であって、あちらの世界が拒絶していたわけではないんだな、と思いました。壁を作っているのは、私達の意識でしかないのかもしれません。

 このフィールドワーク以降、日々の生活の中でも、できるだけ”自然”にふれあい、そこに宿るスピリットの存在を感じるようにしています。こういう感性というのは、スピリチュアルマッスルなどと言ったりもしますが、筋肉と一緒で、鍛えれば鍛える程強化されていきます。「自分にはそういう能力がないから」などと思い込んで感性をフルに使う努力をしないのはもったいないです。スピリチュアリティ(霊性)は本来誰にでも備わっているものなので、感性を磨いていこうという意識を強くもっていれば、時代のエネルギーも手伝って、どんどん開花されていくと思います。

 

オーストラリアンブッシュワークショップ報告①

 オーストラリアンブッシュフラワーエッセンスのワークショップ「レベル2」を受けてきました。

 

 相変わらず目の覚めるようなカラーのスーツに身を包んだイアンさん。今回もたくさん深淵な知識を授けてくださいました。大変濃密な2日間でした。

 

 オーストラリアンブッシュ(AB)のエッセンスは、飲んだ方がエネルギーを感じやすいようで、具体的な変化も起こりやすく、ファンがとても多いです。スピリチュアルな変容をもたらしつつ、現実的な問題解決にもわかりやすく繋げてくれますし、エッセンスを飲んだからといってフワフワと地に足がつかない状態が続くようなことはまず起こりません。

 

 エッセンスは、作り手さんの個性が反映されるものですが、ABエッセンスがこのように堅実な変化をもたらしてくれるのは、作り手であるイアンさんのキャラクターが強く影響しているような気がします。イアンさんは、スピリチュアルな深い知識をお持ちで、見えない世界とも強く繋がっていらっしゃる方ですが、同時にしっかりと地に足をつけた、現実的な考え方をなさる方でもあります。話は非常にわかりやすく、筋道が通って論理的ですし、地球や自然界との繋がりもとても大切になさっています。スピリチュアリティを高めながら、しっかりとグラウンディングして生きるとは、こういうことなんだなと思います。

 スピリチュアルに興味があり、見えない世界との繋がりが元々強いタイプの方は、ともすればそちらの世界に引っ張られ過ぎてしまい、現実との折り合いをつけて生きるのが難しくなることがあります。スピリチュアルな世界は美しく、パワーも強いですし、惹かれるのは当然かもしれません。けれど私達は意味あって今こちらの世界にやってきているので、あまりスピスピし過ぎて現実が嫌になってしまうと、こちらでのミッションになかなか辿り着けなくなってしまいます。なんでもバランスが大事なので、スピリチュアリティとグラウンディング、この二つを同時に意識して、極端な方向に偏り過ぎないように気を付けた方が、いろいろとうまく回っていきます。

 

 イアンさんはアボリジニの方々とも深い繋がりを持っていらっしゃるのですが、元々アボリジニというのは、しっかりグラウンディングをしている人々なのだそうです。地に足をつけつつ、スピリチュアリティを追求しているというわけです。ABエッセンスは、そのエネルギーを持っているとの話に、納得がいきました。

 

 

 足場が不安定な崖の上の花を採取したり、ワニやヒルがうようよいる池に入っていったり、トゲのある花で怪我をしそうになったりと、エッセンス作りも楽ではありません、とおっしゃっていました。今でも個々の花からエッセンスを作るのはイアンさんだけなのだそうですが、広いオーストラリアの大地をあちこち駆け回ってエッセンス作りをやりつつ、毎年世界各地でワークショップを開いているだなんて、そのバイタリティに頭が下がります。

 スーパーマンのようなイアンさんですが、数年前に車の事故に遭った時の話をしてくださった時には、”裁判のことを考えていたら頭の中でいろいろなことがグルグルまわってしまい、それを鎮めるエッセンスをとった”とおっしゃっていました。イアンさんほどの方でも、そんなことがあるんだな、と少しホッとしたりしました。

 最初は意外だったのですが、イアンさんはジョークもお好きで、たまにきわどい冗談を真顔でとばすお茶目な一面もお持ちです。スピリチュアルに生きるといっても、人間らしさってやっぱり大事だよなあ、と思います。

 

 今回のワークショップでは、ここに書ききれない程多くの貴重な話を聞いてきましたが、中でも"The power of prayer"(祈りの力)を強く私が確信することになった、ある女性の話が印象的でした。

 

 ある女性が高速道路を運転していると、前の方で事故があったようで、車が渋滞でとまりました。その女性は、事故に巻き込まれた方々のために、運転席で癒しの祈りをしました。

 6週間後、その女性の家のドアをノックする音がしました。ドアを開けてみると、見知らぬ女の人が花束を抱えて立っていました。そしてこのように言いました。

 

『私は交通事故でひどい怪我を負ったものです。意識が抜けていた(体外離脱をしていた)際、あなたの車の中から、癒しの白い光がとんでくるのがわかりました』

 

 その方は、ヒーリングエネルギーを送ってくれたことに感謝をしに来たのです。意識が宙を飛んでいる時、ナンバープレートも目に入ったため、病院にいる間、どの方が自分にヒーリングエネルギーを送ってくれたのかが分かったのだそうです。

 

・・・イアンさんはこの話を、強い肉体的・精神的ショックを経験した時に人は体外離脱をすることがある、という説明の一環で話してくださったのですが、私は祈りの力って本当に具体的に存在しているんだな、と強く思いました。体感的に感じてはいましたが、こういう話を聞くと、それが確信に変わります。

 

 これまでもうぶすなのセッションでABエッセンスは使ってきましたが、ワークショップで1つ1つの花とそのエッセンスのディープな説明を受けたことで、また更に理解が深まったように感じます。今回のワークショップで得られた知識と経験を活かしつつ、私自身が向上していく努力を続け、皆さんに還元していけたらと思っています。

 

 

思春期って

 先日、娘が通う中学校の体育祭がありました。小学生とは体格も異なり、中学生が本気で走る姿は、近くで見ていてとても迫力がありました。毎日部活で鍛えているだけあって、娘の同級生達が中学校に入学してからどんどん顔つきや体つきが精悍になっていく様は、傍目で見ていても頼もしく感じます。中2になった娘も最近は身長がちょうど私と同じくらいになり、本気でかかってこられたら負けそうです。食事も私の二倍くらいの量を食べるので、それだけエネルギーを使っているのだろうなと思います。

 そんな風に見た目では逞しくなっているように見える中学生ですが、やはり中身はというと「まだまだ子供なんだな」と感じることも多いです。肉体的にも内面的にも大人と子供の狭間にいて、その間を迷い悩みながら行ったり来たりしているのが中学生のように思います。

 

 大変盛り上がった体育祭でしたが、その余韻はまだ続いているようで、クラスの子達と今度打ち上げをやることになったから行ってもいい?と聞かれました。中学生で打ち上げとは・・時代が違うからなのか、私が育った田舎とは環境が異なるからなのかはわかりませんが、私が「打ち上げ」なるものの存在を知ったのは高校生になってからだったように思うので、カルチャーショックを受けました。

 こういう質問をされてとっさにどう答えたら良いのか、こちらも初めての経験なので少し迷います。とりあえず、お店の場所を教えることと、帰ってくる時間ををきちんと守ること、などを約束させてOKしました。

 その答えを聞くや否や、携帯の所にダッシュして何やらお友達に報告をしていました。普段は反抗的態度が多く、こちらが何か言えば条件反射的に反発してくる娘ですが、こういう時は一応「母親の了承」がものをいうのだなとおかしくなります。

 

 打ち上げに行くことが決まったら、次は「何を着ていくか」でひと騒動。お風呂に一緒に入っている間、上はどのTシャツを着て、下は何を合わせたらいいのか、あれは合わないこれは生地がダメ、これはいいけどちょっとガーリー過ぎるかも、髪型はどうしよう、どのヘアバンドが合うか、etc... ずっとしゃべり続けていました。

 一応基準があるようで、ガーリー過ぎるものは(ぶりっこだと思われるので)だめ。無難なカジュアル路線を採用しつつ、かつおしゃれで流行もさりげなく取り入れたい様子。イヤリングはつけていきたいけど、誰もつけてなかったらまずいから、お店に行って様子を見てからつけるとのこと。自分1人が浮いてしまうことと、おしゃれじゃない人のレッテルを貼られることを極度に恐れているようです。

 そんなに他人の目を気にしないで自分が着たい服を着たらいいんじゃないの。自分が思っている程他人は気にしてないと思うけど・・などと間違っても口に出してはいけません。自分の立ち位置と、周りからどう見られているかを極端に気にするのが思春期というものです。

 

 今、娘が思春期を謳歌していることで、私自身もなんだか青春を再び味わっているような気持ちになることがあります。大人の冷めた目で見れば、そんな服装1つで大騒ぎしている状況なんて、一笑に付す程度のものかもしれません。けれど自分の若かりし頃を思い返してみても、渦中にいる時というのは、不安と自信のなさに圧倒されながらも、何とか無難にこなそうと1つ1つが真剣勝負です。

 いろいろとツッコミを入れたくなることは多々ありますが、二度とやってこないと思っていた青春を、間接的にだけれどもう一度楽しませてもらっていることには、感謝しなければいけません。私は自分の時は思春期を全く楽しんでいなかったので、特にそこに関しては少し後悔があります。「こんな時期早く終わればいい」とずっと思っていました。純粋に、もっとエンジョイしていればよかったな、と思います。

 

ミュージカル

 小学生の頃、初めて福島から上京して家族とミュージカルを観に行って以来、ミュージカルは私の心のエネルギー源となっています。学生時代や独身の若い頃はお金もなかったのに、よくもあんなにたくさん観劇に行けたなあと思うくらい、足繁く劇場に通っていました。少しでもお金があったらチケットを買っていたので、毎月ギリギリの生活をしていました。それでも心は満足でした。

 人気の作品は何度も再演されるので、同じ作品を別のキャストで繰り返し観たりもします。良い作品は何度観ても感動しますし、演者によって表現の仕方が異なるので、その違いを感じるのもまた楽しいです。また、年月を経て私自身の内面が変わっていったことにより、同じ作品でも昔と違った視点で眺めている自分に気づいたりもします。

 

 若い頃とてもとても大好きで、観る度に深く感動していた、とある有名作品があります。主人公は、純粋でひたむきな心の持ち主の女性。愛する男性のために身を捧げ、子供も宿しますが、社会的な事情から恋人と引き裂かれてしまいます。会うことが叶わなかった何年もの間、女性はいつか恋人と再会できることを夢見て忠実に待ち続けます。ところが、男性側は途中であきらめてしまい、別の女性と結ばれてしまうのです。主人公がその事実を知り、自分の想いがもはや叶わないことを知った時、絶望して自ら命を絶ってしまいます。

 

 10~20代の頃の私は、主人公の熱いパッションに共感し、純粋でひたむきな思いに心を打たれて毎回涙して観ていました。自分の命をかけてまで愛を貫くって美しい、などと感じていました。

 

 数年前、久しぶりにその作品が上演されることになり、私はチケットを購入しました。またあの感動を味わえる、とワクワク楽しみにしていました。

 ところが、いざ観劇してみると、以前とは感じ方が全く異なっている自分がいました。若かりし頃のように心が動かされていないことに、少なからずショックを受けました。私は鈍感になってしまったのだろうか・・

 主人公がひたむきに1人の男性を愛し、引き離されている間も諦めることなく、熱い情熱を保ち続ける姿に、かつての私は胸を打たれていました。けれどその時の私はふと、

 

――――― あれ、これって、”執着”なんじゃないのかな ―――――――

 

 と思ってしまったのです。現実を受け入れられず、1人の異性に固執し、周りを見ず、更に更に自らの命まで絶ってしまうとは。他にも男性は星の数ほどいるわけだし、1人の人にこだわる必要はないし、もっと広い視野で人生を眺めれば、一度思うようにいかなかったからといってそこでリセットすることもないのでは・・しかも子供もいるのに。現実を見るべきなのではないだろうか。本当の愛って、相手を思いやることではないだろうか。そして人生の流れを受け入れてそれに身を任せることではないだろうか。子供と相手のことを本当に思うなら、自分は潔く身を引いて、その先の人生を前向きに生きればいいんじゃないだろうか。それを拒んで人生を終わりにしようだなんて、自分中心の欲に負けたっていうことじゃないだろうか。

 観ている間にモヤモヤとそんなことを思ってしまっていました。そんな冷めた視点で眺めてしまっている自分が、なんだかすごく年をとってしまったかのように感じました。

 

 同じように、その後間もなく娘と一緒に観に行った「ロミオとジュリエット」も、悲劇の展開にハラハラと涙する娘の隣でやはり、

 

―――――ー あれ、これも”執着”なんじゃないのかな ―――――――

 

 と引いて観てしまった自分がいて愕然としました。恋愛って一見美しいけど、実の所執着なんじゃないか・・周りが見えなくなって盲目になり、1人の人に異常にこだわることは執着というのではないか。恋愛に夢中になっている人って、浮足立って地に足がついていない、冷静さを欠いた視野狭窄状態なんだな・・そんな風に思ってしまいました。もはや、恋愛ものや悲劇を純粋に感動できないのだろうか。私はもう感動する心をなくしてしまったのだろうか、とかなり焦りました。

 

 

 その時から数年経った今、よくあるラブストーリーなどを、それはそれでエンターテイメントとして受け入れられるようになってきたので、ちょっと安心しています。一周回って純粋に楽しめるようになってきた感じです。一度ものすごく冷めた視点で眺めた後、それを普通に楽しもうというゆとりが生まれたような気がします。人間なんだから、この世で生きているんだから、ドラマがあっていい。

 

 ミュージカルを観た後の自分が、若い頃と違うことがもう1つあります。それは、舞台のエネルギーに圧倒され、その波にしばらく飲まれた生活を送ることがなくなったことです。観劇の後、フワフワと別の世界に漂って現実生活にうまく対処できなくなるようなことはなくなり、きちんと地に足の着いた状態に切り替えることができています。

 年をとったせいなのか、自分がエネルギースポンジになることをやめたからなのか、もしくはその両方なのかもしれません。

 

悩みを捨てたかったら

 フラワーエッセンスの売れ筋商品としては、「豊かさ」や「女子力アップ」「恋愛成就」をテーマにしたものが多いです。それと同時に、「浄化」や「手放し」系も根強い人気があります。

 

 何かを手に入れようともがくより、まずは必要のない心の重り(トラウマ、思い込み、とらわれ、執着、恐れ等)を外した方が、より心は軽くなり、本当の幸せに繋がりやすくなります。

 

 人が悩んでいる時というのは、何かに縛られている時です。何かを失うのが怖かったり、何かが手に入らないのではないかと不安になるから、自分の中で矛盾が生じてその葛藤に悩むのです。悩みから解放されたかったら、自分の中にある「縛り」を捨てると、悩みそのものが生じなくなります。外的な要因は、実はあまり関係がありません。不思議なことに、自分が内側で縛りから解放されると、今まで自分を散々悩ませてきた外的な要因がなくなったりします。周りの人や環境が自然と変わっていくのです。まずは内側で変化が起こり、その後外側に変化が起こります。

 

 フラワーエッセンスには、その人が何かに固執している時、そのとらわれを剥がしてくれる作用があります。何かにとらわれている状態というのは、その人にとって理想の状態ではありません。フラワーエッセンスは、その人がその人らしく輝いている姿に導いてくれるものです。

 

 

 自分が一度根本からクリアーになりたいという方は、2017年に新しく出た、アンジェリックの『Cosmic Reset』というエッセンスがお勧めです。とらわれている時というのは、とらわれているという事実にすら気づかないものです。こうしたものを飲んでいると、まずは自分が「とらわれている」「とらわれていた」という現実に気づかされます。そして、その後不必要な執着やら思い込みを手放すプロセスが始まります。エッセンスは、そのプロセスさえも助けてくれます。

 

(Cosmic Resetの解説です↓)

全てがふさわしい場と状態にあり、私たちは新たな人生に向けてリセットする準備ができました。コンピューターや電話等がさらによく機能できるよう時折リセットする必要があるように、私達も人生を時にはリセットする必要があります。リセットを行うと秩序が戻り、役に立たなくなった古いエネルギーが解消されて、私達のエネルギーや人生が洗練されて、新鮮さと明確さをもって進むことができます

~ネイチャーワールド㈱ホームページより引用

 

 

 私が浄化・手放し系のエッセンスを飲んでいた時のこと。ボーっとテレビを見ていた時、ふと

 

「今回できなかったら、次(の人生)でまたチャレンジすればいいんじゃない」

 

 という言葉が内側から響いてきました。いきなり響いてきた言葉には力があり、深い部分から強く訴えるパワーがありました。

 そっか、それもそうだ。何も今回の人生で、やりたいことを全て成し遂げようとむきになる必要はないんだ。できなかったら、また次の人生でやればいい。全然焦らなくていいんだ。

 

 そんな風に自然と思えました。あれもこれもやらなきゃ、やり遂げなきゃ、と少々気負い気味だった私は、なんだか肩の荷がスーッと下りたような感じがしました。案外、人生で成し遂げるべき課題は、実はそんなに数多くあるわけではないのかもしれません。神様は、一度にそうたくさんの宿題は与えないものです。その時その瞬間、自分の目の前にある課題を1つ1つこなしていけばいいのであって、結果や遠い未来のことは思い案じる必要はないような気がします。1つ1つこなしていったその先に、自然と道が拓いていきますし、学ぶべき課題は必ず学ぶことになっているから、環境や物質的な状況も自然と整います。

 

 長年しがみついていた心の縛りを取り外していくと、憑き物が取れたように心が軽くなっていきます。自分の外側でどんな嵐が吹き荒れていようと、内側が穏やかな状態であれば、苦ではなくなります。心さえ平穏を保っていれば何が起こっても大丈夫なんだとわかれば、外的な要因を怖がることもなくなっていきます。

 

アファメーション

 昨年8月に91歳で亡くなったルイーズ・ヘイさんといえば、アファメーションの力を世界中に広めた先駆者として、自己啓発・スピリチュアル界では知らない人はいない存在です。

 私も、彼女の著書を何冊も読み、その生き方を含めた力強い前向きパワーにだいぶ助けられました。

 

 ルイーズさんの本に出合った頃、はっきり言って私はネガティブまみれでした。昔から批判精神が旺盛で、何事も最初から疑ってかかる所がありました。物事を斜めから見る習慣がいつの間にかついてしまい、若い頃はそんな皮肉屋である自分を、性分なのだから一生変わることはないだろうと考えていました。

 けれど心のどこかでは、そんなひねくれた自分に違和感を感じ、このままでは嫌だ、このままでいてはいけない、という思いがありました。本当は、私は人を信じたいし、人を愛したい。思えば、とても小さかった頃の私は、それができていました。自分で言うのもおかしいですが、ストレートでピュアで、人が言うことは何でも信じてしまうような子供でした。それが、世の中の汚い部分や人のダークな一面を垣間見ていくうちに、次第に変わっていきました。いちいちショックを受けてへこむのが苦しくなっていったのです。それで私は、防御策として、逐一裏切られて嫌な思いをするくらいなら、最初から世の中は汚いものだと思うことにしよう、人は信じられないものだと思うことにしよう、と自分自身を納得させるようになっていきました。

 そんなこんなで、ナイーブな内面を抱えながらもひねくれた少女に育っていった私は、すっかりネガティブ思考が身につき、でも本質的にはピュアな部分も併せ持つために、違和感と自己嫌悪感も同時に抱いているという、自己矛盾した心の状態が続いていました。

 

 ルイーズ・ヘイさんの本と出合った頃は、そんな自分にほとほと嫌気がさし、また自分自身の内面を揺さぶるようなウェイクアップ・コールが起こっていた時期だったので、読みながらとても共鳴する感覚がありました。

 けれど、ルイーズさんの本にもたくさん書かれていて、彼女自身がずっと実践してきたポジティブなアファメーションに関しては、なぜかその時には実践する気持ちになれませんでした。思うに、ずっとネガティブ優勢の心理状態で生きてきた人が、いきなり180度ポジティブにシフトすることはちょっと難しいというか、無理があります。ルイーズさんのように、自分のダークサイドを克服してポジティブに自己変革しながら理想の人生を生きられたら幸せなのだろうな、とは思いつつも、ちょっとその時の自分にはその道のりが遠すぎて、いきなりポジティブ全開にはなれないし、拒否反応が出てしまったのだと思います。

 

 その後私は長い時間をかけて1つ1つ心のお荷物を外していき、かつての自分とは比べものにならないくらい内面がクリアーになりました(まだ完璧ではありませんが)。ネガティブ思考の餌食になることも減り、ともすればダークサイドに偏りがちだった自分が、気づいたらポジティブ優勢になっていました。その状態になって初めて、私は改めてルース・ヘイさんのポジティブアファメーションを具体的に実行してみようという気持ちになりました。「これを実践すれば自分は更に変われる」という確信のようなものがありました。

 実践してみると、アファメーションというのは本当にパワフルで、思ったより即効性があって驚きました。言葉の力というのは、私達が考えている以上に影響力があります。そして、心の中で唱えるより、実際口に出して言った方が絶対に効果があります。

 

 最近わかったのですが、ポジティブアファメーションというのは、心の中で信じていようがいまいが、とりあえず口に出して言ってみることに意味があります。自分自身が疑っていても、信じることができなくても、とりあえず”言葉”に出して言うことで何かが変わるのです。ネガティブまみれだったかつての私は、そのことさえ信じることができず、実践するまでにかなり遠回りをしてしまいました。その効果を実感した今となっては、ネガティブまみれであっても、信じられなくても、とにかく騙されたと思ってブツブツ唱えていればもっと早く楽になれたかもしれない、と思います。

 

 

怒りの大元

 フラワーエッセンスを使い始めた頃、個人的に使用頻度が高く、大変お世話になっていたのが、バッチの『ホリー』というレメディでした。これは、イライラ・むしゃくしゃ・怒り・嫉妬・妬みといった、他人に対する攻撃的な感情を和らげてくれるものです。思えば若かりし頃の私は、”怒り”を原動力に生きてきたような所がありました。世の中でゆるせないこと、ゆるせない人がたくさんいて、そういう不満や疑心を糧に、反抗心や反発心をエネルギーにして、頑張っていたような感じです。

 若かりし頃は、そのおかげでいろいろなことに挑戦することができましたし、ある程度プラスに働いていた部分もあるとは思います。けれど、そういう生き方をずっと続けるのは疲れるし、とてもしんどいです。怒りのエネルギーは、相手に向かっているようで、そのベクトルは必ず自分の方にも向かっています。怒りの感情に苛まされると、まず自分の内面が爆発して、その余波でしばらくどす黒い燻煙がたち続けます。この余波によって、自分の内面が汚されていく感じがずっとありました。簡単に言うと、怒りを抱いている間は、まったく気分が良くないのです。

 結局、怒りの感情は、他人にとってだけでなく自分にとっても、良い事なんか何もないということに気づき、私は自分の中の”怒り”と対峙することに決めました。

 

 ちょうどその頃、「怒りに向き合う方法」や「アンガーマネジメント」といったテクニックが巷で紹介され始め、いくつか試してみたりもしました。けれど私の感覚として思うのは、そういったテクニックは、一時的に怒りを鎮めてくれるかもしれませんが、結局は対処療法に過ぎないということです。怒りの根本原因が癒されないままであれば、次に似たようなシチュエーションが起こった時、怒りは再びやってきます。そして、その状況は何度も繰り返されます。

 

 この根本原因を突き止める努力を避け続けていれば、どれだけアンガーマネジメントを実践しても、何十本ものフラワーエッセンスを飲んでも、怒りは生じ続け、その感情に苦しみ続けると思います。

 

 この先の人生、怒りに支配されて生きるのはまっぴらごめんだと決心し、”怒り”が生じる度に、徹底的に自分の内面に向き合い、一体私の中の何がこの怒りを生じさせているのか、自分に問い続けました。自分が本気で知りたいと願ったことは、必ず答えが返ってきます。勇気を出して己の内面に向き合ってみると、今まで気づかないフリをしていた、たくさんの”思い”や”信念”や”恐れ”が出てきました。私はその1つ1つに向き合い、受け入れ、そして手放していきました。

 

 

 ふと気づいたら、私はすっかり、「ホリー」のお世話になることが減っていました。今でも時々飲むことはありますが、大体は日々の生活で起こるかすり傷程度の感情です。私が私に正直に向き合うようになったら、怒りで自分をごまかすのではなく、あるがままの在り方を受け入れられるようになってきました。怒りは、何かを受け入れることを拒絶している、抵抗の証です。自分の中の許容が深まれば深まる程、抵抗が減り、結果怒りが生じることも減っていきます。

 

Turst(信頼)

 最近セッションでよく出るのが、アンジェリックの『Trust』。

 自分の中の、”信頼”を高めてくれるエッセンスです。

 

 本当はこうしたい。本当はこっちに進みたい。本当はこうありたい。今目にしている現実や状況とは別に、自分の本質的な部分が望んでいる状態が他にある場合。そんな自分になることを本心では望んでいるのに、なぜか一歩が踏み出せなかったり、現状に甘んじてしまったり。人間は変化を起こすよりも、現状を維持することに安心感を覚えるものなので、どうしても前に進むことに躊躇しがちです。

 

 セッションでいろいろな方とお話していても、皆さん本当は、自分が「どうしたいか」「どうありたいか」という心の奥底にある願望には、ちゃんと気づいています。気づいてはいるんだけれど、それが「正しい」のかどうか、そっちに進んで大丈夫なのかどうか、少し不安を抱いてしまうことが多いようです。特に、今までの人生で、自分の本質的な望みより周囲の願望に合わせることが多かった場合、自分の気持ちより周囲の望みを優先する方が、何となくしっくりきてしまうのです。その場合、自分が本当に望んでいることを優先させることに対して、罪悪感があったり、批判されるのではないかという恐れが湧いてきたりします。

 

 自分の本当の気持ちに忠実に生きる、自分の本心が望んでいる選択をする、と決めた時、重要になってくるのが、”信頼”です。自分の思い、直観、能力、導き、そういったものに全幅の信頼を置けるかどうか。誰がああ言っているとか、あの人がこうしてるとか、一般的にはこうだとかいう固定概念に縛られず、次々と沸き起こってくる疑念や恐れに惑わされず、そして何より自分が自分に対してずっと抱いてきた不信感に負けることなく、進むべき道をただ進む。

 アンジェリックの『Trust』は、そんな状況にある人に、自分を信じる気持ちを高めるサポートをしてくれます。深い部分から、「あ、これで大丈夫なんだな」と思えるようになるエッセンスです。そして、自分の元にやってくるガイダンスに対する信頼感も高めてくれるので、たとえ現実世界で孤立無援であっても、自分は1人ではない、守られている、導かれている、という感覚がもたらされ、深い安心感に包まれます。

 

 

タロットのこと

 うぶすなでは、ご希望されたお客様には、無料でタロットセッションをしています。私が行うタロットは、いわゆる”占い”としてのものではありません。人の未来など、その人次第で一瞬先の出来事も、いくらでも変わる可能性があります。そのような未知数の出来事を、まるでその通りのことが起こるかのように決めつけてしまうのはとても危険なことだ、と強く思うようになってから、未来予測のようなことはしないように気を付けています。

 

 私は、タロットとは、その方の潜在意識を映し出すもの、と思っています。不思議なことに、タロットのカードを広げていると、カード(なのかそのカードがもつエネルギーなのか)がメッセージを発しているように感じます。カードの出たポジションや向き、隣り合うカードとの関連性などを読み解いていくと、その方がどのような流れで今の状況に至り、本質的には何を望んでいるのか、そして何を恐れているのか、手放すべきことは何か、逆にどんどん開発していくべきことは何か、ということがみえてきます。その方の高次の意識が、カードを使ってメッセージを送っているのだと思います。私はただ、感じ取り、読み取った内容をそのままお伝えします。その時、個人的な感情や思い込みはできるだけ排除し、メッセージを伝える媒体に徹するようにしています。

 

 リーディングを無料にすることに決めたのも、そこにお金のやり取りが入ることで、どうしてもエネルギーが濁ってしまうように感じたからです。お金を頂かなくなってから、より、メッセージがクリアーで力強いものになったような気がします。初めてお会いした方でも、「どうしてそんなことがわかるんですか」と驚かれることがあります。「どうして」と言われても、私自身にもわかりません。どうしてこのようなことがわかるのか、私にも毎回わからないのです。ただ、その時に感じることを言っているだけです。

 

 タロットは、私たちが日常の様々な出来事に忙殺され、本当の自分、本当の自分の望みを忘れてしまっているような時、あなたが進むべき道はこちらですよ、と、高い次元から改めて導いてもらうためのツールのような気がします。私自身も、迷ったり悩んだりして行き詰った時は、無心でタロットを広げます。そしていつも、ハッとさせられたり、勇気づけられたリ、自信をもらったりしています。何より大きいのは、私はたった1人ではない、どんな存在かはわからないけれど、私を応援して、導いてくれる頼もしい存在がいる、という確信を得ることができ、大きな安心感に包まることです。

 

フラワーエッセンスの恩恵

 学年が変わり、新しいクラスになった娘。新しい先生に新しい友人、新しく入ってきた部活の後輩・・この時期特有の、緊張感と期待感で入り混じった気持ちで過ごしているようです。

 

 ここしばらく、娘用のトリートメントボトルの中身を変えていなかったのですが、数日前、「ねえねえ、今の私に合うエッセンスない?」と聞いてきました。”今の私”の状態を聞き、合いそうなエッセンスの名前を挙げようとすると、すかさず

 

「あ!言わないで!私が選ぶから」

 

 と言われました。娘はこれまで何度も、インスピレーションで今の自分にドンピシャなエッセンスを選んできました。そのためか、エッセンスの直観選びには自信があるようです。そんなわけで、私は候補になりそうなエッセンスをテーブルに並べました。娘はエッセンスの知識はほぼありません。テーブルに並んでいるエッセンスを眺め、「うーん、これかな」と言いながら、あっという間に6種類のエッセンスを選びました。

 それらのエッセンスは、『苦手な人や嫌いな人が周りにいてストレスを感じている時や、新しい環境にいて新しい概念を取り入れる必要がある時』『自分の中で長年培われてきた偏見を癒したい時』『ネガティブエネルギーから身を守り、自分にとって何が真実かを見極める』『オーラについた傷を癒す』『周囲で嵐が吹き荒れているような状況の時、周りの喧噪から離れた、自分だけの聖域をつくる』・・・といったテーマのものでした。まさに今の娘にぴったりな内容です。自分でも「すごーい!」と感心していました。

 

 選んだエッセンスでトリートメントボトルを作っている間、娘はしみじみと、

 

「あー、エッセンスがあって良かった。私、こういうのがなかったら今みたいにはなっていない気がする」

 

 と言いました。あ、そんな風に思ってくれているんだなと私は少し嬉しくなりました。小さい頃からずっと、当たり前のようにエッセンスを飲んできたので、エッセンスが本当に自分の役に立っているのか、どれだけの恩恵を受けているのか、よくわかっていないのではないかと思っていたからです。

 

 パワーオブフラワーの作り手であるイーシャさんが、ワークショップの時に教えてくれた話を思い出しました。イーシャさんの娘さんが結婚することになった時、結婚に向けての準備でとても忙しい日々を送っていたそうです。あまりにも目まぐるしい毎日を送っていて、精神的にも疲れ果てている様子の娘さんに、イーシャさんはフラワーエッセンスを飲ませてあげたそうです。すると、それを飲んで気持ちが落ち着いた娘さんが一言、「ママ、フラワーエッセンスって本当に効くのね」と言ったとのこと。

 イーシャさんは、娘さんが幼い頃からずっとフラワーエッセンスを飲ませてきて、彼女はフラワーエッセンスを飲んで育ったようなものなのに、その時になるまでその恩恵に気づいていなかったの、と驚いたとおっしゃっていました。

 

 

 ちなみに、私は息子と夫にも同じようにエッセンスを毎日飲んでもらっていますが、こちらの二人もおそらくいまいちピンときていないのだろうなという感じがします。ただ、何となく飲んでいると「良い感じ」というくらいの感覚はあるようで、エッセンスのボトルを片づけたりすると、「あれ、ぼくのエッセンスは?」と聞いてきたりします。

 

 

本当に私はゆるせたのか?

 ずっと、「ゆるす」ということについて熟考してきましたが、じゃあ果たして自分が誰かを完全に「ゆるす」ことができたかどうかは、どうやったらわかるのでしょうか。

 

 自分が本当にそのこと、その人のことを心からゆるせたのかどうか。私の中では、それを判断するための、ある明確な基準があります。

 

それは、

 

『自分が、無条件で、その人の健康と幸せを望めるかどうか』

 

です。

 

 心のどこかで、まだその人を恨んでいたり、ゆるせないと思っているうちは、なかなかその人の健康と幸せを祈る気持ちには至りません。しかも、「無条件で」というのがミソです。「あの人が~してくれたら」「あの人が変わったら」「謝ってくれたら」云々・・といった条件は一切なしです。ゆるすゆるさないというのは100%自分の問題なので、相手の今の状況や言動には、フォーカスする意味がありません。

 

 表面的に、「もうあのことは忘れたから」などと吹っ切れたかのように振る舞っていても、実のところは全くゆるせていないことも多々あります(考えた時に怒りが湧いてくるようなら、まだゆるせていないということです)。思い出さないようにしている、考えないようにしている、といった記憶の封印は、ゆるしのプロセスを避けている証拠でもあります。ゆるし、手放すことに抵抗している時、よくこのように「見ないように」しようとします。

 

 

 私は、過去においてゆるせないと思っていた人や出来事を思い返した際、心の底からその人の健康と幸せを望む気持ちを抱けているかどうかをまず確認します。それで、素直にそのような気持ちを抱けていない場合は、ああまだ自分の中で完全にはゆるせていないんだなと思います。そして、なぜ自分はまだその人のことをゆるせていないのだろうと考えます。私の中の何が抵抗しているのだろう。何にしがみついているのだろう。その人をみる際、自分の中の何を投影して見ているのだろう。

 そんなことを内省します。そして祈ります。私の中の抵抗を、執着を、すぐに剥がしてください、サポートしてください、力を授けてください、と。

 ゆるせない人がいるということは、自分の中に怒りを保持しているということで、その怒りが潜在意識を汚し続けているということです。そんな状況が嫌なので、私は自分がゆるせていないことを発見したら、すぐさま手放しのワークに取り掛かります。

 

 

 自分の中で、完全にゆるすことができると、記憶がよみがえった時の自分の反応が、かつてのそれとは全く違ったものになっていることに驚きます。起こった出来事は変わらないけれど、それに対する自分の見方が変わったので、反応が変わったのです。

 

 アンジェリックエッセンスに、「Unconditional Forgiveness(無条件の赦し)」という、そのものズバリのエッセンスがあります。 本気で「ゆるす」ことを決心した人には、強力な助っ人となってくれるエッセンスです。

 それ以外にも、手放しの過程をスムーズにしてくれるものや、手放しの過程で起こる感情的な葛藤をサポートしてくれるもの、怒りを和らげてくれるもの、等々、ゆるしのプロセスを楽に乗り切るために、助けとなってくれるフラワーエッセンスはたくさんあります。

 

 

ゆるすということ~その4~

 何年か前に私は、自分のそれまでの人生の中で出会った「ゆるせない」と思っている人(大小様々で何人かいました)や、「ゆるせない」と思っている出来事を、全てゆるしたいと強く思いました。というか、どんなことがあっても絶対にゆるそうと決心しました。なぜかというと、時々過去の記憶を思い出しては、怒りや憎しみの感情であふれかえるような経験に、もういい加減うんざりしていたからです。何かを恨むということは、自分の中でどす黒い爆弾を抱えているようなものです。その爆弾は時々くすぶり、燻煙を上げ、私の心の中を汚していました。

 確かにその人達は、ひどいことを言ったかもしれませんし、非難されてしかるべき行動をとったかもしれません。けれど、それはそれとして、私がその経験と記憶のために、この先もずっと苦しみ続けるなんてまっぴらごめんだと思いました。その苦しみから逃れるためには、私が、その人達と、起こった出来事と、そして私自身をゆるさなければいけないのだと、どこかで気づいていました。気づいていたけれど、それまでは、どこかでまだ、手放す準備ができていなかったのでした。自分が被害者であると思い、相手を悪者にし続ける方が、起こった出来事の責任は自分にあるという事実を認めるより、楽だったのだろうと思います。

 

 けれど同時に、私は私の人生で起こる全てのことに責任があることにも気づいていました。誰か他の人のせいではなく、私が選んだから、この人生を歩んでいるのです。ということは、私の人生で起こった出来事も全て、私に責任があるということです。他の人を責める理由がありません。そもそも、責めたり怒ったりしている心の状態がとにかく嫌なのです。せっかく心の平安を望んでいるのに、時々古い記憶がよみがえり、それと共に、怒りや憤りの感情が湧き上がってくるのが、もう嫌で嫌で仕方なかったのです。こんな不毛なことをこの先の人生もやり続けるなんて、無駄どころか自分にとって損にしかならないだろうと思いました。

 

 

 そんなわけで、自分の中で「過去をゆるそう」と決心してから、いろいろなことがありました(内面での話です)。ある日突然、光が降りてきてパーッと視界が開け、瞬時にあらゆることがゆるせるようになった、なんてことは起こりませんでした(それができたら楽なのでしょうけれど)。地味な、地道な作業でした。一歩進んではまた戻り、また進んではまた戻り、をひたすら繰り返しました。もう自分の中で完全にゆるせただろうと思っていたのに、しばらくしたらまだゆるせていなかったことに気づいたり、なんていうこともよくありました。

 

 ゆるしというのは、プロセスなのだなと感じています。少しずつ、心の中のお掃除を進めていく作業です。一週間やそこらで終わる作業ではありません。謙虚に、忍耐強く、地道に進めていくしかありません。

 フラワーエッセンスにもたくさん助けてもらいました。必要な時に、必要な本だったり、誰かの言葉だったり、「あ、これはサポートだな」と思うような助けもありました。人が本心から望んだことは、必ず天が味方してくれるものなんだなと思いました。

 

 自分の中で少しずつ、過去をゆるし、受け入れ、手放すことができていくにつれ、心の中にあった重荷が外れ、軽く、楽になっていきました。数年前には怒りしか感じていなかった出来事でも、気づいたら、愛と感謝の目で眺められている自分がいました。この解放感は、言葉では言い表せられなくらい、自由で、楽です。

 それから面白い事に、ある出来事(や人)がゆるせるようになったら、同時に他の出来事も同レベルでゆるせるようになっていました。1つの記憶、1つの出来事にフォーカスして癒しを進めていったら、その他の記憶や出来事も同時に癒されていった感じです。おそらく、心の許容量が増えていったためだと思います。現実に起こる出来事や、出会う人々に対する自分の許容量も広がっていきました。数年前だと絶対に拒絶していたであろう出来事や人に対しても、寛容に見られている自分に驚きます。

 

 まだまだプロセスは進行中だし、学びの半ばにいる状態ですが、内側に多くの怒りを抱えていた過去の自分と比べて、だいぶ心が軽く、穏やかになりました。この先もどんどんお荷物を捨て続けたら、もっともっと軽くなれるのだろうと思います。

 

ゆるすということ~その3~

 ゆるしの第二段階として、私自身が学んだ、ある深淵な智慧があります。それは、

 

『どのような出来事であれ、その出来事やそれに関わった人をゆるしたいのであれば、まずは何よりも先に自分自身をゆるすこと』

 

 です。

 

 「ゆるす」というと、もしかしたら、相手をゆるすことにまずフォーカスしてしまうかもしれません。けれど、自分が過去に起こった出来事をゆるせていないということは、そもそも、その現実を自分の人生に引き起こした、私自身をゆるせていないということです。そういう人生を選択した私を、私がゆるせないのです。人生とは、選択です。こんな人生じゃなかったら、こういう親に生まれていたら、あんな環境で育っていれば、あの時ああしてれば、ああ言っていれば、云々、いろいろとたらればを考えてしまうものですが、全ての道と環境は自分が選んだものです。その事実を認めたくない思いが根底にあると、自分ではなく、他人を責めたくなります。

 

 自分の人生と、人生で起こった出来事全ては、私に責任がある。私が選んだものである。その事実を受け入れたくないがために、怒りのベクトルを外側に向け、過去を悔やみ、自分の身に起こった不幸を誰かのせいにしたがるのです。

 

 

 自分をゆるすというプロセスは、自分の身に起こった全ての出来事を、ギフトだと受け止めることでたやすくなります。それが起こった背景には、必ず深淵な意味があります。メッセージがあります。そこに気づくことで、受け入れやすくなります。過去を責め、悔やんでいる間は、学びはありません。ただいたずらにネガティブな感情を生み出し、その感情に自分自身が苦しみ続けるだけです。

 過去から学び、成長し、強くなった自分に気づくことで、どんな出来事でも、そこからポジティブな意味を見つけることができます。感謝することができます。

 

 過去に起こった出来事は事実として変わらなくても、それに対する自分の見方が変わることで、出来事そのものの意味が完全に変わります。自分を痛めつける悪しき記憶から、私を成長させてくれた深淵な経験、に変わります。とらえ方が変われば、感情も変わります。悩まされることもなくなります。記憶はなくならなくても、それに煩わされることがなくなるので、苦しみはありません。

 

 災いとみなすか、糧とみなすか。とらえ方ひとつで、過去に縛られ過去に苦しめられる生活から、過去を手放し、過去から学び、過去に感謝できる生活へと変わっていきます。

 

ゆるすということ~その2~

 ゆるしの第一段階として、自分の中で、その出来事(もしくは人物)を「ゆるす」と決心する、という大事なプロセスがあります。

 

 当たり前のことのようで、実はこの決心がなかなかできていないのが実情だと思います。自分は、本当に、心の底から、微塵の迷いもなく、その出来事(人)をゆるそうと思っているのか。

 

 微塵の迷いもなく、というのが難しいところかもしれません。心のどこかに、ゆるすことを妨げている思い(怒り)や恐れがあったりするものだからです。

 

 どこかに、相手に対する復讐心がないでしょうか。相手を傷つけたい、反省してほしい、自分に詫びてほしい、変わってほしい、そういった願望はないでしょうか。

 

 また、自分がもし、このことをゆるした場合、どんなことが起きるか。そのことが起きる、つまり”変化”が起こることに、不安や恐れを抱いてはいないでしょうか。葛藤を手放した時に、何かを失うのではないか。相手をゆるしたら、私が何かを失うのではないか。

 

 あまりにも長いこと、怒りを抱いて生きてきたから、怒りを保持しながら生活することに慣れてしまい、おかしなことに、怒りを抱いている状態に妙な安心感を抱いてしまうこともあります。怒りを抱えながら生きていくことは、本来窮屈で苦しいことであるはずなのに、変わることよりも、変わらずにいることの安心感の方に流れてしまうのです。これも、手放しを妨げている大きな要因の1つであることが多いです。ゆるすこと、怒りを手放すというプロセスは、強い意志とエネルギーが必要なので、それを行うだけの心のゆとりがないと、手放す覚悟がなかなかできないかもしれません。その場合、一見変わらないでいる方が、楽なように感じてしまいます。

 

 また、怒りを抱えて、不幸せな自分でいることが、相手に対する復讐だと(無意識下で)思っている場合もあります。特に、ゆるせない相手が親や身近な人であるケースに多いです。ハッピーな自分より、苦しんでいる自分をみせることで、相手にも苦しんでほしいのです。私が不幸なのはあなたのせいだと、身をもって見せつけたいのです。

 

 

 過去を引きずり、過去の記憶の中で生きることがあまりにも当たり前になり、それが自然なこととして疑うことすらしなくなっている、という状態が、もしかしたら最も一般的かもしれません。何度も何度もリピートしてくる過去の記憶と、その記憶に付随してくる感情に自分自身が慣れてしまい、疑問を抱くことすらない状態です。特に問題意識をもつこともなく、それがごく自然なこと、当たり前のこと、変わる必要がないことという認識になっているのです。

 変わる必要がないと思っている間は、手放そうという意識さえ生まれないかもしれません。それは、その人にとってまだそのタイミングではないということです。

 

 ただし、もし自分が気づいてしまったら、それはもう後戻りはできません。プロセスは始まってしまったのです。自分の中のどこかで、「ゆるしたい」「手放したい」という思いが芽生えてきたなら、それはもう、手放す時期に来ているということです。深い部分からやってくるウェイクアップコールは、無視しようと思ってもそうはいかないものです。聞こえないふり、気づかないふりをしても、繰り返し、その声はやってきます。

 

 

ゆるすということ

 しばらく前に、息子のクラスで喧嘩が起こり、ある男の子がもう1人の男の子の顔に軽い傷をつけてしまったことがありました。その出来事をその日の晩酌時に夫に話していたら、夫が子供の頃、友達同士で戯れていた時に負った傷の話になりました。夫は、その時のことをずっと忘れていたようなのですが、話しているうちにいろいろな記憶が蘇ってきたようでした。

 

「そういえばあの時、とばっちりをくらって怪我をしたのはオレの方なのに、先生は『ボーっとしていたお前が悪い』とかいってオレが叱られたんだ」

 

 と夫。そんなことを思い出したせいか、その時のやるせない、悔しい思いがふつふつと湧き出てきたようで、

 

「あー、いろいろ思い出したら腹が立ってきた!もうやめよう、この話」

 

となって、その話はおしまいになりました。

 

 それを聞いて私は、夫はまだその時のことをゆるせていないのだなと感じました。話している間、夫の怒りの感情がこちらにも伝わってきました。もうその出来事が起こってから30年以上も経っているにもかかわらず、根本的にその出来事をゆるせていないので、思い出すと怒りが湧いてくるのです。

 

 このような”ゆるせないこと”は、小さなものから大きなものまで、多くの人が未解決の問題として、内側に抱えているものです。もう還暦をとっくに過ぎた女性タレントが、とあるテレビ番組で、子供時代に父親から受けた心理的虐待の話をしながら泣いていたことがあります。過去を手放せているかいないかは、年齢や、起こった時期は関係ありません。その人が、自分の身に起こった出来事を受け入れ、ゆるせているかどうか次第です。

 

 夫は、少年時代に起こったある理不尽な出来事を、ゆるさないという選択肢をとりあえずとったようでした。今は彼の中でゆるすタイミングではなかったのかもしれません。まあ普段は忘れているようなので、日常生活に支障をきたすような深刻な問題にはなっていないようです。

 ただ、その人の中で、その出来事(やそれに関わった人物)のことを常に反芻し、その度に怒りや憤りや悲しみなどネガティブな感情に苛まれ、苦しみ続けているようであれば、それは確実に、その人のエネルギーレベルを下げ、幸せを阻害する要因となっています。相手を恨んでいるようで、実は、自分自身が、自分の思いによって不幸になっているのです。

 

 ゆるすゆるさないというのは、相手があるようで完全に自分自身の問題です。相手は関係ありません。自分を傷つけた人が反省していようといまいと、忘れていようと覚えていようと、生きていようと死んでいようと、相手の今現在のシチュエーションは全く、これっぽっちも、微塵も関係ありません。ゆるしというのは、100%自分の問題です。

 恨み、ゆるせないと思っている人がいたら、その人に報復したい、自分の思いを伝えたい、と考えるのは、人間としてごく自然なことなのかもしれません。けれど、仮にその人に復讐をしたり、自分の思いを伝えられたとして、それができたからじゃあその人をゆるせるかというと、そうとは限りません。自分の中でゆるせていなければ、相手に何をしたって、相手がどう変わったって、ゆるせないものはゆるせないままです。

 

 他人の問題は、他人が責任を負うもので、私ではありません。私は、私の問題の責任を負えばいいだけです。どうせ私の問題に相手は関係ないのだから、もうその人のことを考えるのはやめて、ベクトルを完全に自分に向けた方が、手放しがスムーズに進みます。

 

 

恐怖心

 昔、誰かの本の中で、

 

「怖がりな子供は将来有望」

 

と書かれていたのを目にした時、一瞬なぜだろうと思いましたが、その理由を読んで納得したことがあります。それは、

 

「怖がりということは、想像力が豊かであるということだから」

 

 ということでした。確かに、物事を怖がる背景には、イマジネーションの力が働いています。目には見えていないものを感じる力や、今後起こるかもしれない出来事を予測する力、そして、自分という存在よりも大きな、抗えない力が存在するという認識があるからこそ、得体のしれない恐怖というものを感じるのではないかと思います。それらは生きていく上で、助けとなってくれる要素でもあります。周りと調和しながら、謙虚に生きていくために、想像力と共感力は大きな力となってくれます。

 

 ただ、いたずらに恐怖心ばかりが刺激されたり、不安ばかりが肥大化していってしまうと、圧倒されて足がすくみ、望ましい行動がとれないという状況も起こり得ます。

 

 特に、敏感で想像力の豊かな子供は、恐怖心を覚えやすい傾向があります。そんな時に助けとなってくれるフラワーエッセンスといえば、アスペン、ミムラス、アンジェリカ、ダンデライオン、Freedom from Fearあたりでしょうか。こういった不安と緊張を癒すエッセンスに、プロテクション系のエッセンスなども入れてトリートメントボトルを作れば、怖がっている子供にぴったりのボトルができそうです。

 

 恐怖心というのは、人間の生存本能の一部だといわれます。自分の身を守るための、本能的な感情です。元々私達に備わっている感覚なのだから、恐怖心を感じること自体は責める必要はないと思います。実際、本能的に恐怖心を感じる時というのは、私達の第六感が、何かを伝えたい時だったりします。

 恐怖心をいたずらに悪者扱いするのではなくて、うまくバランスをとりながら、必要な時には活かしながら、付き合っていきたいものです。

 

 

愛と赦しと人間関係

 先日、4年生の息子のクラス懇談会に行ったら、女の子のお母さんが何人か、最近女子特有の人間関係問題が出てくるようになった、という話をされていました。そういえば娘の時も、大体4年生頃から友達同士でグループを作るようになって、その中でいざこざが起こったり、仲良くしていたはずの友達と突然口を利かなくなったり、かと思えば今まであまり話さなかった子に急接近するようになったり・・といった、面倒な”女の子問題”が出てきたように思います。

 男の子は、付き合い方があっさりしているので、気が合わない子とは最初から無理して付き合うことがないし、後腐れもありません。見ていると、思ったことはお互い率直に口に出していますし、時には激しく怒ったり文句を言ったりして、ある意味コミュニケーションがダイレクトにとれています。また、何となく仲のいいグループのようなものはあるようなのですが、女の子のように特定の人とひたすらベッタリ付き合うということがあまりなく、関係は割と淡泊です。そんな感じだから、女子のようにドロッとした問題が起こりにくいのかなと思います。

 

 女子特有の問題は、中学生になった娘も相変わらずちょくちょく悩まされていますが、小学生の頃と比べて、対処の仕方も多少は学んできたのかなと感じます。

 そういえば、娘が小学校高学年の時、例によって女の子問題が起こり、そのことで相談されたことがありましたが、その時に、

「こういう女の子特有の面倒な人間関係の問題は、大人になってからも続くよ」

と言ったところ、え、そうなの、と愕然とした表情をしていたのを思い出します。

 

「そうだよ。お母さん達だってPTAでそういうのあったよ。あ、そうそう、おばあちゃんも、習っている習字教室であったってこないだ言ってた。ってことは、一生続くってことだね。あははは、頑張ってね!」

 

「・・・・」

 

 大人になったらこういう面倒な問題には悩まされることがないだろうと思っていた娘にとっては、ショッキングな事実だったに違いありません。

 けれど私が言いたかったのは(その後ちゃんと話しました)、こういうことでした。世の中にはいろんな人がいるし、これからもそういう複雑な人間関係の中で生きていかなければいけない。自分と気が合わない人と出会わないようにするのは無理なことだし、これからだって面倒な関係性に巻き込まれることがきっとあると思う。どうせ避けて通れない問題なのであれば、それに対処できるスキルを身につければいい。今後、人間関係の問題が起こった時、相手を拒絶して腹を立てるのではなくて、その人を受け入れられるようになったら、悩みに苦しめられることなく、穏やかな心をキープしたままでいられるよ。今抱えている問題は、そういうスキルを身につけるためのレッスンだと思えばいいんじゃない。

 

 ・・話しながら自分で気づいたのですが、かつての私は、どうしても受け入れがたい人が目の前にいた時、完全に拒絶してシャットアウトしてしまっていました。嫌だなとか離れたいなとしか思っていなかったので、そういう人が身近にいるだけで苦痛でしたし、とんでもないストレスを抱えていました。今思えば、何て傲慢で失礼なことをしていたんだろうと恥ずかしくなります。

 娘にも偉そうなことを言えないくらい、かつての私は人づきあいがとても下手くそでした。それが、だいぶ最近、人を受け入れられるようになったのは、自分の内面が大きく変わってきたからだろうと思います。他人を変えようとするのではなくて、自分が変わること、このことにひたすら一点集中するようになってからです。

 

 「じゃあ、どうやったら受け入れられるようになるの?」

 

 と娘に聞かれた時、私はこう答えました。

 

「とにかく、その人のことを理解しようとするんだよ」

 

 私も完璧にできているわけではありませんが、否定しそうになる気持ちを抑えて、とにかくその人のことを理解するように努力する。努力、努力、努力。どうしてその人はそういう言動をとっているのか。どうしてそんな態度を私にとってくるのか。言葉や態度の裏にある、その人の事情や”思い”に目を向けるようにします。そして、更に大事なのが、どうして今その人は、自分の目の前に現れているのか、ということに気づくことです。その人は、私の中の何を鏡として見せてくれているのだろう。私に何を教えようとしているのだろう。私はこの出会い、そしてこの出来事から、何を学べるのだろう。完全にはできなくても、少しでも深く、理解できるように努めます。そして、その出会いを、自分自身の成長の糧となるように、感謝の気持ちで受け入れます。

 

 

 他人に対する理解を深めてくれるエッセンスもいろいろありますが、最近の一押しは、アンジェリックの「ホ・オポノポノ」。部活内での様々な問題に日々直面している娘も、今飲んでいます。だいぶ他者を受け入れる能力が高まっているようで、いろんな気づきも起こっているのがわかります。そして面白いのが、こういうエッセンスを飲んでいると、問題の解決、つまり自分の理解を深めてくれるような出来事が実際に起こるということです。全然関係のない友達からの助言だったり、今までとは全く異なる価値観との出会いだったり。視野が広がると、受け入れ能力も高まります。

 

 「ホ・オポノポノ」は愛と赦しの両方のエネルギーが入っているエッセンスだと感じます。自分の内面が、その二つのエネルギーで満たされていくので、拒絶そして怒りに苦しんでいる人には、お勧めのエッセンスです。

 

「ツリー・オブ・ライフ」にみる父親との問題

 何年か前に見た映画で、とても印象に残っているものがあります。テレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」。

 アメリカを舞台にした、ある一家の物語なのですが、全体を通して映像がとても美しく、人生と宇宙との繋がりが絵巻物のように壮大に描かれ、深く心に染み入ってきます。

 

 私は、主人公のとてもナイーブな少年は、テレンス・マリック監督自身なのではないかなと見ていて感じました。愛情豊かで穏やかな母親に対して、ブラッド・ピット演じる父親は、厳格かつ頑固。自分で作り上げた”強い”父親像を必死に演じているのですが、その息苦しさを主人公の少年は勘づいています(そして自分も苦しむ)。自分を大きく見せるための父の様々な言動が、実は内面に潜むコンプレックスの裏返しであることにも気づいているのですが、そこは実の息子にとって受け入れがたい複雑な現実でもあります。父親を受け入れたい気持ちと、拒絶する気持ちとの間で揺れ、葛藤を抱えたまま少年は大人になっていきます。

 家族が精神的に父親に支配されている閉塞感が伝わってくる映画で、見ていて正直苦しくなる部分もありました。誰でも、”父親”との問題は心のどこかに抱えているものなのではないでしょうか。

 

 中でも印象に残っているシーンがあります。それは、成人して立派な職業に就いている主人公が、電話で父親と話しているシーンです。ショーン・ペン演じる主人公は、もう50代くらいにはなっていると思われるのですが、電話で話す様子が、まるで少年なのです。

 

「うん、わかった父さん」

「父さんの言うとおりにするよ」

 

 といった(少々うろ覚えですみません)感じのセリフだったと思うのですが、その瞬間だけ、主人公の中年男性が、すっかり少年に戻っていました。

 

 

 こういうことは、映画の中だけでなく、実際にも起こっていることです。精神的に支配的な親の元で育った人が、大人になってもその支配から脱却できずにいる場合、親と対面した際、瞬間的に少年・少女の心理状態に戻ってしまうのです。ほとんどは無意識かもしれません。親自身も、自分が我が子を支配したつもりもないし、ましてや大人となった今でもその支配力が続いているなどという認識はないかもしれません。

 これは、親が変われば自分も変われるということではなく、完全に自分の問題です。自分が、かつて自分自身で作り上げた殻から自ら抜け出さなければ、本当の意味で自由にはなれません。

 

 もし、親と向き合っている時、自分が子供に戻っているなと感じているようだったら、自分の中でまだ親の呪縛を強く引きずっているのかもしれません。それは本来息詰まる状況なのですが、不思議なことに、「変わる」ということに対する恐怖心が強いと、そのままでいることに安堵感を覚えるものです。変わるよりは、今のままでいた方が、何となく安心してしまうのです。変化を起こすには、莫大なエネルギーがいるものです。

 

 

 

 ちなみにこの映画の父親役は、本来ブラッド・ピッドではなく他の役者さんが演じる予定だったのだそうです。私も、ブラッド・ピッドと言えば若かりし頃の王子様的なイメージが強かったのですが、この映画の、自ら作り上げた虚像ゆえに自ら苦悩する父親の姿は、本当に見ていて子憎たらしいほどリアルでした。この父親のいびつな行動の背景には、「息子たちに、自分のようになってほしくない」という本心が実はあって、愛情がないわけではなく、愛情が歪んだ形で表に出てきてしまっているだけなのです。自分の思いを、ストレートに出せない事情が、この父親なりにあるのです。そういった1人の男性としての不器用な生き方と、時折見せる弱さ、葛藤なども、ブラッド・ピッドは繊細に演じていました。

 おかげで、「愛情をストレートに出せない父親」に対する理解が、私の中でかなり進みました。

 

 

エッセンス選びは直観で

パープルクロッカス
パープルクロッカス

 今から数年前。その頃小学生だった娘が、学校から帰ると、フラワーエッセンスが並んでいる棚の前に行き、おもむろにあるボトルを指さして、

 

「お母さん、これ飲んでいい?ねえ、いい?」

 

と聞いてきました。今すぐに飲みたい、今飲まないと苦しい、といった息せき切っている様子でした。

 

 普段そんな風に飲みたいエッセンスを自分から指定してくることはありませんでしたし、そもそも数あるボトルの中でなぜそれを選んだのか(娘はエッセンスの知識がほとんどありませんし、ボトルに書かれている英語も読めていないはず)よくわかりませんでしたが、もちろん私はいいよと答えました。

 

 それから1週間くらい経ってから、私は担任の先生との面談で、娘がエッセンスを飲みたいと言ってきたあの日、クラスの中で娘がちょっとしたショックを受ける経験をしていたことを知ったのでした。それは、長い人生の中では誰しもが一度くらいは味わうであろう、ほろ苦い類のものです。

 

 その話を聞いて私は、娘がなぜあの日にあのエッセンスを欲していたのか、ようやく腑に落ちました。娘が選んだエッセンスは、パワーオブフラワーの「パープルクロッカス」。”悲しみ”に対応するエッセンスです。悲しみや恥辱感、罪の意識、批判的な思い、そういった胸に集まるネガティブなエネルギーを優しく緩和してくれます。作り手のイーシャさんは、この花の形は人間の肺に似ているといいます。

 人間の各感情は、諸臓器と繋がっているそうなのですが、悲しみは肺に集まるといわれています。長年深い悲しみを抱き続けていると、肺に不調が表れることがあります。そういえばオーストラリアンブッシュのイアンさんも、孤児院の子供は肺炎に罹る率がとても高いとおっしゃっていました。両親がいる子供より、悲しみや寂しさが強いからなのでしょうか。(ちなみにイアンさんは、そうした子供達に無償でエッセンスを送っているとのことで、エッセンスを飲むようになったら、子供達の罹患率が急速に下がったのだそうです)実際、悲しくつらい経験をした時に、肺がキューっと握られたような、物理的な痛みを感じることがあります。

 

 

 この出来事のことを随分忘れていたのですが、つい先日、中学生になった娘が再び、エッセンスの棚のじっと眺めながら、

 

「お母さん、この2つのエッセンスが気になる」

 

 と言ってきました。パシフィックの「ハートスピリット」と、コルテの「ピンクイルカ」。両方とも、ハートをオープンにし、感情や人間関係の問題を楽にしてくれるものです。中学校生活を送る中で、日々様々な人と接し、何かと胸に抱える思いなどもあることでしょう。父親にシャッフルしてもらい、目をつぶってどちらを飲むべきかを選び(ピンクイルカが選ばれました)、その日から毎日自ら水に入れて飲んでいます。なんとなく、表情が柔らかくなり、優しい雰囲気になってきました。緊張感が緩和されて、攻撃的な感情がほぐされてきている感じです。口ごたえや、私に突っかかってくることも減りました。

 

 そういえば、思春期の入り口に差し掛かったくらいの頃にも、いきなり「このエッセンスが飲みたい」といってきたことがありました。パワーオブフラワーの「ニューライフバランス」。変容の時期を迎えている人に良いエッセンスです。

 

 こんな風に、直観が命じるまま、どんぴしゃで自分が最も必要としているエッセンスを選ぶことができるなら、私のようなプラクティショナーなんて本当はいらないんじゃないかと思ってしまいます。子供は先入観が少ないので、特に迷いなく選べるものなのかもしれませんが、こうした能力は本来誰にでも備わっているものです。大人でも、エッセンスを選ぶのに迷ったら、自分の直観を信じて、その導きに従って決めるのが一番いいのかもしれません。

 

祈りのちから②

 ミッション系の幼稚園でいわゆるクリスチャンの”お祈り”を経験していた私ですが、家には神棚もありました。お墓参りをする際や、仏壇の前でも手を合わせます。なんとなく、キリスト教風の”お祈り”と、神棚や仏閣での”お参り”は別物、というイメージをずっと抱いていたのですが、次第に私の中で、これらの行為が共通するものとして感じられるようになってきました。

 祈りとは、高次のスピリットに畏敬と感謝の念を伝え、そして時には助力を願い、自分の意思を表明する。こうした、自分と”神”的な存在とのコミュニケーション手段であるような気がします。祈りとは相互の力が働くものだというのも、最近強く感じています。つまり、こちらから高次の存在に一方的に何かを伝えるだけでなくて、向こうからも何かしらフィードバックがもらえるものだということです。

 

 何年か前、実家に帰省した際、仏壇の前で手を合わせて拝んでいました。そこには亡くなった祖父母が祀られているのですが、私はその時、自分の両親(祖父母にとっては息子と嫁)をいつも守っていてください、とお祈りしていたのです。すると、全身がとても暖かいエネルギーで満たされていくのを感じました。物理的な熱を感じるほどの、ビリビリとした、力強いエネルギーでした。優しい愛のエネルギーに包まれながら、私はそれが祖父母からのメッセージであると感じました。

 特に仏壇がなくても、亡くなった人のことを思い、こちらからメッセージを送ると、何かしらの形で返答が返ってくることが多々あります。それは、温かいエネルギーだったり、パッと目に飛び込んできた文字だったり、音楽だったり、動物だったり、繰り返しやってくる単語だったりといろいろです。スピリットは、物理的な肉体を持たないので、こうした形で生きている人間とコミュニケーションをとろうとするようです。

 

 また私は普段から、何となく調子が悪いなとか、外部からあまり良くないエネルギーをもらってしまったなと感じる時は、今住んでいる家にある神棚に向かって手を合わせることにしています。そして神様に、私を苦しめている、私に属さないエネルギーを全て取り除いてください、とお願いします。すると、全身総毛だつような感覚と共に、私のエネルギーフィールドにあったネガティブなエネルギーがスーッと浄化されていくのを実感するのです。その後はきまって、スッキリと憑き物が取れたような感じがし、思考もクリアーになって体も軽く感じます。

 

 神棚にも大変お世話になっていますが、悩んでいることや疑問などがあると、私は場所や時間を問わず、とりあえず高次の存在に助けを求めます。教えてください、とか、助けてください、とメッセージを送るのです。そうすると、何らかの形で答えがもたらされたり、助けとなるようなヒントがやってきたりします。それも、具体的な言葉でやってくることもあれば、本や人を介してもたらされることもあれば、気づきという形でやってくることもあります。

 

 

 手を合わせて心静かに祈っていると、頭のおしゃべりが静かになり、高次の存在とのコミュニケーションがとりやすくなるように感じます。”繋がる”感覚がより得やすくなる感じです。様々な祈りの形がありますが、自分という存在を謙虚に受け止め、人知を超えた力の助けを借りることができる、宗教を超えて私達を助けてくれる手段だと思っています。

 

 

祈りの力

 私が通っていた幼稚園は、聖母マリア様を名前に抱くミッション系の幼稚園でした。家がクリスチャンだったというわけではないのですが、母は昔近所の教会に時々遊びに行っていた経験があるそうで、何となく良いイメージがあったようです。

 

 幼稚園では、朝の登園後すぐと帰る前に、きまってみんなでお祈りをするのが習いでした。そのお祈りの文句は、「天にまします我らが・・」で始まる文語調の内容で、出てくる単語も「おんみ(御身)」とか「おんな(御名)」といったちんぷんかんぷんなものばかり、幼稚園児には一体何の意味のお祈りなのかさっぱり理解できないまま、ただ呪文のような感覚で唱えていました。

 

 とはいえ、そんな意味不明とも思われるお祈りの文句でしたが、唱えていると何となく厳かな気持ちになり、心が静まるような感覚があったのを覚えています。今でも、お友達や先生方と手を合わせて頭を垂れ、一緒に同じ祈りの文句を唱えているシーンが脳裏に浮かんできます。短い時間でしたが、あれは今思えば癒しの時間でした。

 

 その後、幼稚園を卒園してからはずっとお祈りとも遠ざかった生活を送り、やがて私は大学に入るために上京しました。大学3年生くらいの頃、クリスチャンでもない私は、ある時クリスチャンの友人に誘われたことをきっかけに、聖書研究会というサークルに顔を出すようになりました。そこでも、毎回必ず皆で行う「お祈り」がありました。それは、幼稚園の時に唱えていたような、決まった祈り文句ではなく、その時その時、牧師さんやメンバー達が即興(?)で唱える内容でした。例えば、その時風邪をひいている人がいたら、その人のために、「〇〇さんの風邪が早く治りますように」と言ったり、留年しそうな人がいたら、「△△さんが無事試験をパスできるようにお導き下さい」と言ったり。それは、お祈りといえば幼稚園時代のあの決まり文句しかイメージになかった私にとって、とても新鮮な経験でした。お祈りって、こんな風に自由に言ってよいものなのだということをそこで初めて知りました。

 そしてやはり、そこにいる人たちと一緒に手を合わせ、同じ空間の中で、1つのことを祈っていると、何ともいえない穏やかな、優しい、厳かな空気が場を満たすのを感じたものです。一度だけ、何のことを祈ってもらったのか今となっては全く覚えていないのですが、私のために皆が祈ってくれたことがありました。その時は、ビリビリと感じる程、力強い、暖かなエネルギーで自分が満たされていくのを感じました。それは未知の体験で、怖いくらいでした。祈りというものが、何か目に見えないパワーを引き起こすもので、本当に癒しの力があるのだということを、身をもって経験したのでした。

 

 大学卒業後、再び祈りとは無縁の生活に戻り、毎日が慌ただしく過ぎていきました。結婚して子供が生まれ、子育てがひと段落しつつあるのを感じ始めた頃、私はいろいろなきっかけがあって、また「祈り」という不思議な力に興味を抱くようになりました。祈りのことをいろいろと調べていくと、海外には、「祈り」の力を癒しのツールとして使っている人々がたくさんいるということを知りました(キリスト教系の団体が多いようです)。祈りの力だけで病気や怪我の人を治したり、精神的苦痛を和らげたりといった、具体的な実績がたくさんあり、祈りの力を科学的に証明する実験もあるそうです。

 とあるアメリカ人の神父さんの本を読んでいたら、次のようなことが書かれていました。

 

「イエス・キリストが始めたキリスト教が、短期間であっという間に全世界に広がっていったのは、イエス・キリストの教えた内容が人々の心を打ったからだけだろうか。イエス没後、弟子や教徒たちが行った癒しの力が本物で、強力だったからというのが、信者が一気に増えた大きな理由ではないだろうか」

 

 私はこれを読んでなるほどそうかもしれないなと思いました。宗教や教えが多くの人々に受け入れられていく理由は、やはりその宗教や教えによって、”実際に”癒されたり救われる人々が存在するからなのではないかと思うのです。

 そしてキリスト教の場合は、祈りの力というものがとても大きな影響力を持っていました。祈りのメカニズムに関してはよくわかりませんが、とにかく何かしらのパワーがあるものには間違いないようです。私自身は何の宗教にも属してはいませんし、これからもそういった団体に入ることはないだろうと思います。ただ、「祈り」の持つ力は実体験も含め確信しているので、宗教とは切り離して、この「祈り」の癒しパワーをもっと自由に、柔軟に、人々が使っていけたらいいんじゃないかなと思っています。

 

 

フラワーエッセンス依存にならないために

 年々新しいブランドが立ちあげられ、既存のメーカーでも次々とニューエッセンスが登場しているフラワーエッセンス業界。

 自分が一体どのフラワーエッセンスを飲んだらよいのか、迷われる方もいらっしゃることと思います。調べれば調べるほど、膨大なエッセンスの量と情報に圧倒され、あれもこれもほしくなってしまうかもしれません。

 

 最近は、「宇宙と繋がる」「魂と一体化する」「神意識と繋がる」「アセンションを加速させる」といった、壮大なスケールのエッセンスもいろいろと出ています。そういったエッセンスの説明を読んでいるとワクワクしますし、早く飲んで一気に変わりたい!と思うかもしれません。

 確かに、エッセンスによっては、宇宙規模の高次元のエネルギーを含んでいるものもあります。こうしたエッセンスは、飲む人が飲めば、意識が高まり、自己変革が起こったりします。ただ、この手のエッセンスが最も効果的に作用するのは、ある程度心のクリーニングが進んでいる方に限られるように思います。

 幻想をくじくように聞こえるかもしれませんが、潜在意識の中に、手放すべきお荷物がまだまだたくさんある人が、高波動のエッセンスを飲んだとしても、「それなりに」しか作用しないものです。宇宙と繋がるエッセンスを飲んだからといって、いきなりその人の波動がビューンと上がって、雷に打たれたように覚醒が起こる・・なんていうことはまずありません。むしろ、その人が抱えている心のお荷物を手放す方向に物事が動きます。その人が見ようとしてこなかった、ずっと避けてきた課題が浮上するかもしれません。”事件”が起こるかもしれません。別れがあるかもしれません。エッセンスとは、そのように作用するものです。

 それは別に、エッセンス(高次のエネルギー)が意地悪をしようとか、罰を与えようとしているわけでは決してなくて、むしろ、その人が真の幸せを得るために、手放すべき心のお荷物に気づかせようとしてくれているのです。

 

 潜在意識の中に、過去の癒されていないトラウマやら悪しき記憶やらネガティブな思い込み、信念、固定観念などがたくさん残っているのなら、まずはとにかく、それらを1つ1つ浄化していくのが先決です。その課題を見事にクリアーした暁に、ようやく真の覚醒へのスタートラインに立つことができます(そしてこれもまた果てしなく長い道のりになることでしょう)。頭のおしゃべりに日常的に強い影響を受けているなら、宇宙(ハイヤーセルフ、神、大いなる存在、etc..)と繋がりたいと望んでも、マインドに邪魔をされて宇宙からのメッセージが受け取りにくくなってしまいます。

 自分がそういう状態だと感じているのであれば、まずは「トラウマを癒す」「執着を手放す」「浄化を促す」といったテーマのエッセンスを飲むことをお勧めします。そして、気が遠くなるかもしれませんが、1つ1つ、意識的に、お荷物を手放していきましょう。感情に向き合うワークが有効です。フラワーエッセンスは、時として痛みを伴う浄化の過程を優しく、かつ強力にサポートしてくれます。浄化や気づきのスピードが高まり、殻が破れる行程をスムーズに導いてくれます。とらわれ、停滞している状態から、次の段階へと促してくれます。

 1つ1つ心のお荷物を手放し、殻を破っていくと、どんどん楽に、軽くなっていきます。そして何より、潜在意識のクリーニングが進んでいくと、目の前に広がる現実が変わっていきます。出会う人や、引き寄せる物事、現象が、より望ましいものになっていきます。たとえ問題が起こったとしても、もう以前の自分のようにとらわれた見方でみることがないので、大きなダメージを受けることなく、自然な形で解決へと導かれるようになります。物事をスケールの広い見方でみることができるようになれば、かつての自分であれば動揺していたような出来事が起こっても、動じることなく、落ち着いて対処できます。

 

 フラワーエッセンスは、あくまでサポーター、助けてくれる存在でしかなく、その人が変わるためには、意思の力と行動、努力そして忍耐がより重要な要素になります。ただ飲んでいれば変われるわけではないので、過剰に期待したり、全面的に依存してしまわないように、上手につきあっていくのが良いかと思います。

 

困ったらリラックス

 私は映画が好きで時間がある時によく観るのですが、いろいろ観ていると、演じている俳優さんには、主に二つのタイプがあるように思います。1つ目は、頭で考えて、緻密な計算をした上で演じるタイプ。もう1つは、頭で考えず、感覚的に演じるタイプ。憑依型と言われる俳優さんがこれです。憑依型のタイプの方は、演じている時に目が変わっていることが多いですが、オーラや、場合によっては体質まで変化することがあるそうです。霊的な世界で自分以外のものとシンクロしている状態、まさに憑依現象そのものです。

 私が大好きな、憑依型タイプのある女優さん(アメリカの方)がいるのですが、その方が以前、何かのインタビューで、難しい役を演じる時にはどのように役に取り組んでいるのですかと聞かれた時、次のように答えていました。

 

「何も考えず、何もしない。ただ、リラックスするのよ」

 

 本番前、緊張していたら、1人静かになれる場所に行って、深呼吸したりしてリラックスすることで、役にスッと入り込むことができるのだそうです。

 

 

 

 リラックスした状態というのは、緊張している状態より、高いバイブレーションの情報が入ってきやすくなります。高い次元の叡智と繋がるのも、こんな時です。

 ノーベル賞クラスの大きな発明をされた方が、決定的なアイディアを思い浮かんだ瞬間のことを聞かれると、似たようなことを述べていることが多く、興味深いです。実験に煮詰まって散歩に出た時にふとヒントがやってきた、お風呂に入ってボーっとしていたらアイディアが浮かんできた、夜布団の中で寝ようとしていたらいきなりひらめきが降りてきた、等々。研究に没頭している時ではなく、むしろ少し研究から離れた時に、アイディアが降りてくることが多いようです。

 夜眠りにつく前と、朝起きてすぐの半覚醒状態の時というのは特に、あちらの世界との繋がりが強くなり、この時に高い次元からの情報がやってくることが多いと言われています。いずれも、緊張していたり、頭のおしゃべりが鳴りやまない状態とは異なる、深いリラックス状態といえます。

 

 何か問題を抱えていたり、物事に煮詰まっている時、一度そこから離れてふっと一息つくことで、自然と解決法に導かれることが多いのは、心と頭がリラックス状態になり、高い次元とのアクセスが可能になるからです。物事は、より高い観点でとらえた時に、解決策が見えてきます。答えがほしかったら、まず自分のバイブレーションを上げるのがお勧めです。一生懸命頭で考えて、うーんうーんと唸って答えを絞り出そうとするより、思い切ってリラックスした方が、バイブレーションが上がるので、実はより簡単に答えを得やすくなります。

 どんな問題にも、必ず解決策はあります。それは、自分が予想したり期待していたやり方とは異なるかもしれません。けれどそもそも、私達が頭で考えることをはるかに凌駕しているのが、宇宙の叡智というものです。人知を超えた導きを信じて、そこに合わせていった方が、よりスムーズに、より楽に、望ましい方向に導かれていきます。

 

 

エンパスであるということ

 エネルギーに対して敏感体質な人のことを”エンパス”といいますが、日本人は特にこのエンパスの比率が高いといわれています。

 

 エンパスは、場所や他人の放つエネルギーに敏感で、放っておくと自然に、スポンジのように周囲のエネルギーを吸い取ってしまいます。

 

 自分がエンパスであるという自覚がなく、周囲のエネルギーを知らず知らずのうちに吸収していることにも気づかないままだと、なぜ自分が特定の場所に行ったり特定の人と会った後、特別疲れたり、頭が痛くなったり、体が重く感じたりするのか、よくわからないままかもしれません。

 

 うぶすなにも、エンパスの方がたくさん(というかほとんどの方がそう)いらっしゃるのですが、多くの方が、自分がエネルギーに敏感過ぎることを「面倒くさい」「疲れる」「損だ」といったようにネガティブにとらえていらっしゃるようです。

 

 けれど、何事にも意味があり、持って生まれた資質は全てがギフトだということを考えれば、自分がエンパスであるということも、天から授けられた貴重な贈り物であるといえます。エンパスであるということは生まれつき備わっている能力なので、後天的に身に着けることはなかなか難しいです。エンパスにしかできない役割や仕事というものがあり、1人1人にその道が与えられています。そうした役割を受け入れ、自分の力を最大限に開発させて、他者や世の中に何らかの形で貢献していくことが、エンパスとしての使命なのではないかなと思います。

 特別ビッグなことをするまでいかなくても、日常生活の中で、例えば他者に共感するとか(共感能力は、エンパスの最大の武器)、人の話をじっくり聴く(傾聴)とか、芸術的センスを生かして何かをする(エンパスはアーティスティックな能力が高い人が多い)とか、何かしら自分の能力を活かすツールはあると思います。

 

 エンパスであるという資質をプラスにとらえて、プラスに転じていく方法はいくらでもあります。周囲のマイナスエネルギーを簡単に吸収してしまうという側面に悩まされることも多いかもしれませんが、それを回避したり軽減する方法もいろいろあります。

 私が経験を踏まえてとても有効だと思った方法をいくつかご紹介します。

 

①自分のエネルギーと他人のエネルギーを明確にする

 これは、エンパスである人がまず最優先で身に着けた方が良い、とても強力な方法です。外部のエネルギーにあまりに無防備でいると、エンパスはいとも簡単に外部のエネルギーを自分のエネルギーフィールドに取り込んでしまいます。まず、自分のエネルギーフィールドを守るためにも、「どれが自分以外のエネルギーか」ということを常に意識していた方が良いです。どこかにでかけたり、誰かと会った後、自分のエネルギーフィールドに何か異質なものがまとわりついている感じがすることがあると思います。それが、他人のエネルギーです。こうしたことは、意識するようになればなるほど、どんどん敏感になっていきます。そのうち、人と話している間、その人の感情やマインドのエネルギーが自分のフィールドにやってきた瞬間がわかったり、それがどういうエネルギーで、どのように自分に影響を及ぼしているのかまでわかるようになります。

 少なくとも、それが”自分のものではない”という事実が理解できただけでも、そのエネルギーの影響を最小限に抑えることができます。何事も、気づくことが大事です。自分のものでなければ、すぐに手放せばよいのです。自分の元を去っていくイメージをするだけでも、だいぶ解放されていきます。

 こうしたトレーニングを積み重ねていくと、どんどんエネルギーに敏感になり、様々なエネルギーの種類を区別することができるようになっていきます。そうなってくると、もはやネガティブエネルギーの影響も不必要に受けることがなくなり(取り込んだままということがなくなる)、自信もついていきます。人を癒すお仕事に就いている方などは、こうした能力を研ぎ澄ませていけばいくほど、自分を守るだけでなく、他人にも大きく貢献していくことができるのではないでしょうか。

 

②自分のエネルギーフィールドをブロックする

 そもそも、ネガティブなエネルギーの影響を必要以上に受けないためにも、自分のエネルギーフィールドを最初から守ることも大切です。イメージトレーニングや祈祷、ストーン、護符など、様々なツールがあるかと思います。私は毎日、防御の力があるエッセンスの助けを借りています。電車に乗ってどこかに出かけた日や人が大勢いる場所に行った日など、これをちゃんと飲んで行った時と飲まずに行った時とでは、帰ってからの疲れ具合が全く違います。

 

③ネガティブエネルギーにできるだけ近づかない

 どんなにプロテクトしても、どうしても周囲のエネルギーの影響は受けてしまうものです。何か嫌な感じがしたり、ざわざわするような場所や人からは、できる限り遠ざかった方が良いです。最初から近づかないのが身のためです。エンパスの人は優しい人が多いので、他人の愚痴や悩みを聴いてあげるシチュエーションが自然と多くなるかもしれません。それも、自分ができる範囲で、自分がつらくならない程度に、を心がけた方が良いかと思います。世の中には、ネガティブエネルギーが確かに存在しています。ネガティブエネルギーを纏った人も存在しています。そういうネガティブ全てを、自分1人が何とかしようなんて思わない方が良いです。自分が求められている場所で、自分の能力の範囲内で、できることをすればいいと思います。その人が倒れてしまう程は、天も仕事を与えないものです。時には、逃げることも大事です。それは罪ではありません。

 気が進まないけどどうしても行かなくてはいけなかったり、会わなくてはならない人がいる場合は、まず最初にしっかりと自分のエネルギーフィールドを守った上で、「私はこの場所(人)のエネルギーを受けません」「私は守られています」といった意識を強く持ち、①のような、自分と他人との境界線をしっかりとキープしましょう。

 

④毎日エネルギークリアリングを行う

 エンパスの人は、プロテクションと同時に、日常的に浄化をした方が良いです。浄化の方法も様々ですが、私がいろいろ試した結果、習慣づいたものは以下の方法です。

 

 ★浄化のフラワーエッセンスを飲む

 ★浄化のフラワーエッセンスや、海塩を入れたお風呂につかる

 ★神棚に手を合わせる

 ★瞑想をする

 

 これをやっているだけで、まずどんな強いネガティブエネルギーをもらってしまった時でも、しばらくするとスーッと浄化されていきます。神棚は、なければ自分だけの神聖な空間を作り、そこを高い次元の存在と繋がる場所にしていけば良いかと思います。私が感じるに、浄化というものは、何か高い次元の存在の力が働いて行われているようです。自分で何とかしようと思うのではなくて、素直にスピリット界に助けを求めて、浄化してくださいとお願い(お祈り)すると、助けてもらえます。どこでもどんな場所でもそれはできると思いますが、例えば神棚や祈りの場所など、”繋がる場所”を決めてしまった方が、より簡単に、そして強力に繋がれる感覚があります。

 また、こうした場所を作っておくと、モヤモヤしている時に尋ねると答えが返ってきたり、前へ進むための大きなヒントをもらえたりするので、日常的に手を合わせてスピリット界と繋がる習慣をつけておくと、浄化の意味だけでなくても大きな助けとなってくれます。

 

 

完璧ではない自分

 今から80年程前、バッチ博士が作ったフラワーエッセンス(バッチ博士は”レメディ”と呼んでいました)は、38種類でした。その後、次々と新しいフラワーエッセンスが世界中で作られ、今現在は数千種類かそれよりもっと多くのフラワーエッセンスが存在しています。更にその数は年々増えており、そのすべてを把握するのは難しいくらいです。うぶすなでも200種類ほどのエッセンスを取り揃えていますが、中でも人気が高かったり、使用頻度が高いものは、20種類前後です。

 

 よく出るのは、「ネガティブな感情を浄化する」「自尊心を高める」「罪悪感を弱める」「自分の思いに素直になり、本当の望みに気づく」「古い殻を脱ぎ捨て、新しいスタートを切るのを後押しする」「あるがままを受け入れる」といったテーマのものです。

 繊細で敏感な方というのは、周囲の期待や思いをくみ取るのが得意なので、知らず知らずのうちに、自分の願望よりも他人に合わせた選択をする習慣が身についていることが多いです。また、エネルギーに敏感なため、特に他者の怒りや悲しみなどのネガティブな思いに過敏に反応してしまい、それを避けるためにも、自分を押し殺す癖がつきがちです。

 そうした習慣が長く続くと、 自然と「自分」がおろそかになり、「自分」が価値ある存在であるという認識が低く(自尊心の低下)なっていきます。また、周囲の期待に完璧に応えられない自分を責めたり、物事がうまく進まないことを自分のせいにしてしまうことも多く、常に「罪悪感」を抱き続けることにもなります。本来、その人が最も輝いて幸せを感じるためには、他人ではなく自分自身の本当の気持ちに素直になるしか道はありません。それが宇宙と調和する唯一の方法だからです。物事の多くはそのことに気づかせるために起こるので、自分の気持ちに素直にならない限りは、何かがしっくりいかないまま、空回りしたり、満足のいかない状況がずっと続いていくことになります。

 何かが違う、私の人生うまくいかないのは、私が悪いからだ。あの時こうしなかったからだ、あの時あんなことをしてしまったからだ。そんな風に自分を責めている方が多いように感じます。

 

 私は、繊細で敏感タイプの方には、案外”完璧主義”が潜んでいることが多いということにも気づきました。自分自身のあるべき姿や、人生のあるべき形、または社会や世界の理想の在り方など、あらゆる物事に対して、崇高な理想を抱いていることが多いのです。理想を抱くこと自体は悪い事ではないと思うのですが、あまりそこに縛られ過ぎてしまうと、そうでない自分や、そこに至っていない「今」に満足できなくなります。そして、そこにたどり着いていない自分や周囲を無意識的に責めてしまうのです。

 

 「あるがままを受け入れる」エッセンスが必要なのは、理想や高い目標を抱きつつも、「今」を大事にし、物事のプロセスに価値を見出しやすくするためです。また、完璧ではない自分や他人の姿を、欠けているとみなすのではなくて、学びの途中であると認めて、そのままの姿を受け入れることを助けるためです。

 そもそも、人は完璧ではないからこそ、この世に生まれてきているわけです。この世に生きているということは、完璧ではないのです。学ぶことがあるから、今ここにいます。最初から、自分は完璧ではないこと、完璧でないことは当たり前であること、全く責める必要なんかないことを、素直に受け入れてしまった方が楽だと思います。ネガティブな思いが湧き出ることもあるし、嫌な自分が表に出てくることもあるでしょう。それでいいんです。それがこの世に生きる人間の普通の姿だからです。みんな同じです。もし、完璧に悟りを開いていたら、この世に来る必要がなかったでしょう。仏様やその他多くのマスター達と共に、あちらの世界でサポート役に回っていたはずです。

 完璧ではない自分に気づいた時に、「そんなことない、そんなのは自分ではない」と否定するのではなくて、「それも自分の一部だ」と認めた方が、自分を受け入れやすくなります。そして、自分を受け入れることができたら、今度は他人を受け入れるのも容易になっていきます。

 

 

涙と決別

 うぶすなに来てくださったお客様が、お心の内側を話されているうちに、堰を切ったように涙が出てくることがあります。私たち日本人の意識の中に自然と埋め込まれている、”人前で涙を流すのは恥”という概念のためか、そんな時はたいていの方が「ごめんなさい」という言葉を口にします。泣いてしまって恥ずかしい、とお感じになるのかもしれません。

 私としては、そもそも全く謝る必要のないことだと思っていますし、逆に涙が出たのをみると、「ああ良かったな」と思います。なぜかというと、涙が出るということは、1つの区切りだからです。自分の中で、何かを手放した時、そして気づきを得た時、過去にため込んでいたものを浄化し、次に進むために、人は時として涙を流す必要があるのです。

 

 何事も、高い次元でまずことが起こります。その後で、肉体に反応が表れます。人が深い部分で癒されたり、浄化が起こると、それが肉体次元にまで降りてきて、涙という反応として出ることがあります(ヒーリングの最中に自然と涙が出るのはよくあることです)。なので、自然な形で涙が出てきたのであれば、それは手放しのプロセスなので、無理やり止める必要などなく、むしろ流れるがままに流した方が良いです。

 

 ひとしきり泣いた後、スッキリするのは、自分の中にあった古いものを手放したからです。次のステップへと進む心の状態が整ったわけです。涙というのは物理現象なので、古い自分を脱ぎ捨てたことを自分自身が知るためにも、わかりやすい反応といえます。自分で納得しやすいのです。

 

 

 このことで思い出すのは、かなり前の若かりし独身時代に味わった、手痛い失恋時の記憶です。その人と自分は決してうまくいかない、何もかもが合わないことがわかっていたし、幸せになるどころか辛くなるだけ(もう既に十分ツライ思いを味わっていた)だということも知っていたのに、それでも、いざ別れを決意した時、涙がとめどもなく出てきたのです。それはもう、おかしいくらい勝手に出てきて、止めようもありませんでした。泣きながら、「別れた方がいいし、早めにわかって良かったと思っているのに、なんで私泣いているんだろう」と、不思議に思ったものです。

 

 また、これは少し前の話ですが、娘が中学に入ってからというもの、中学生とはこんなにも忙しいものかというほど忙しい毎日を送る娘を、私は頼もしく思ってみていました。朝早く出て行って夕方暗くなってから帰る日々で、土日も部活やら何やらであまり家にいません。親よりもだんだん友達との関係が大事になり、時には私の言うことに激しく反抗することもあります。そんな毎日を本人は生き生きと楽しくやっているし、私もよくここまで成長したなあ、と喜ばしく感じていました。

 けれど、そんな生活が1か月ほど続いた頃。私の中に、何か吹っ切れていないものがある感じがしました。娘の成長と、人生のターニングポイントを喜ばしく思う一方で、新しい段階に進むことに若干抵抗している、何かがあるなと思いました。

 そこで私は、深く長く瞑想をしてみました。私の中にある、このモヤモヤは何ですか、と問いかけながら。

 すると、しばらくしてから、思ってもいなかったことに、涙がスーっと出てきたのです。意外な反応に自分でも驚きました。それは自然に出てきました。そしてその瞬間、

 

「あ、私、寂しかったんだ」

 

 と思いました。

 

 子供の成長を喜ぶ自分がいる一方で、どんどん自分の手から離れていく状況に対して、本当は少し、寂しかったのです。私はそのことを素直に受け入れていませんでした。もうかつてのような、お母さんを全面的に頼って、信頼しきっている小さな女の子ではなくなったことを、心の底から認めることにどこかで抵抗していたのです。親離れしていく子供を無理に引き留めてはいけない、という自分を諫める思いもありました。嬉しいけど少し寂しい、がホントのところだったのに、”寂しい”を否定していたわけです。だからモヤモヤと引っかかっていたのです。

 

 そのことに気づいたら、涙と共に、自分の中にあった抵抗も出て行きました。寂しい思いにきちんと向き合ったら、それはもう抵抗ではなくなりました。そして、気持ちがスッキリして、自分と娘との関係が新しいステージに移ったことを、心の底から受け入れることができました。後ろに引っ張られる気持ちや、モヤモヤがなくなったのです。

 

 

 

 この二つの経験で、どちらとも、私は進むべき道を進んでいることがわかっていたし、自分の選択は間違っていないことも知っていました。だから、なぜ自分が泣いているのかが最初はよくわかりませんでした。これでいいはずなんだから、泣くことなんかないのに。

 けれどやはり、”物理的に”、私は泣く必要があったのだと思います。肉体次元で最後に反応して、はい終了、だったのです。それがあったからこそ、気持ち新たに次の段階へと進むことができました。きっぱりと割り切る決意ができました。

 そういう部分で、涙を流すという行為は、儀式のようなものなのかもしれません。終業式や卒業式をしなかったら、「終わった」気分にそう簡単には切り替わらないことでしょう。頭でわかっているだけでは、人間どこかで納得がいかないものなのかもしれません。

 

 

粛々と

 新しい年になりました。

 

 去年は、振り返ってみれば、古いもの、自分にとって必要のないもの(物理的なものに限らず)を一気に手放した年でした。

 

 いざ手放してみると、なぜ今まで自分はこれに縛られていたのだろうと不思議に思います。何かに縛られている間は、なかなか自分が縛られている、執着しているという事実に気が付かないものです。そして、一度執着が外れると、もうそれまでと同じような付き合い方ができなくなります。

 

 思い返すと、ここ数年で随分、人間関係の変化もあったなあと思います。本当は楽しくないのに楽しいフリをしたり、義務感や相手に気を遣って望まないお付き合いをするのをやめることにしたからです。

 

 また、かつての私は、何かを決める際に、誰かの同意や後押しがなければ何となく不安でした。自分が信頼している人に、「それでいいんじゃない」とか、「やってみたら」と言ってもらい、背中を押してもらうことで、自分でも納得して進めることができたのです。なので、相談する人が何人か必要でした。

 けれど最近は、全ての答えは自分の中にあること、自分の人生の舵取りをするのは自分でしかないこと、私の本当の望みは私にしかわからないこと、他人の意見は関係ないこと・・・こうしたことが明確になってきたので、いちいち誰かの反応を気にしたり、人の意見を求める必要がなくなってきました。そのため、相手を頼り頼られといった共依存の関係に陥ることもなくなりました。

 

  最近、自分の内なる声に従って人生に変化を起こそうとしているのだけれど、いまいち自信が持てずにいる人達をターゲットにした、各種セミナーなどの自己啓発商法が巷に溢れています。私もかつて、うっかりそうした商法に乗っかりそうになった経験があります。自ら「先生」であろうとする人々の本質を見抜く眼力を養うのも、これからの世の中大切かと思います。

 ポイントは、その人の目的がエゴによるものか、それとも純粋な魂の望みからきているものか、という部分です。人間はいとも簡単に、金銭欲、名誉欲、自己顕示欲といった誘惑に引っ張られ、エゴの罠にハマってしまうものですが、純粋な目的を維持する強い意志力があれば、そうした欲望の道に簡単に堕ちていくことはありません。例えば、本がどれだけ売れたとか、何千人もの教え子がいるとか、有名セレブも通っているとか、そんな表面的なことばかりを自慢げにアピールしているのであれば、その人はエゴの罠に引っ張られている証拠です。そして、似たようなエゴの誘惑に惹かれて寄ってくる人達が、次々と餌食になっていくことになります。

 

 私自身もこれまでに散々迷い、あちこち彷徨い歩いてきた経験からいうと、世の中で本当に純粋な目的を抱いて活動している導師というのは、ごくごく希少な存在です。人生で一度でも出会えるかどうかさえわかりません。だいたい、そういった純粋で高次の目的の元に活動している人は、自己アピールをしないので、人目に触れることがあまりありません。本もやたら出しませんし、セミナーの類もほとんどしません。必要な時に、必要な人がやってくることを知っているので、自分からむやみに動かず、人目につかない場所でひっそりと暮らしていたりします。

 

 

 とにかく、邪の道に陥ることは簡単でも、純粋な意思を貫き通すことは至難の業です。今年も、周りに必要以上に振り回されず、淡々と、謙虚に、己の信じる道を一歩ずつ歩んでいこうと思っています。

 

 

子離れと断捨離

 断捨離をすることになったきっかけの1つとして、子供の成長もあるような気がします。上が中1、下が小4になり、だいぶ手がかからなくなってきました。基本自分のことは自分でできますし、親といるよりお友達と過ごす方が楽しくなってきています。特に上は部活が忙しいこともあって、中学に入ってから、家にいる時間がめっきりと減りました。家にいる間も、習い事の練習や宿題などで慌ただしく、私とゆっくり話す時間もないくらいです。あんなに私にべったりだった下の子も、最近は周りの目が気になるようで、一緒にお買い物もしたがらなくなりました。学校から帰ると、ランドセルを置いた瞬間外に飛び出し、真っ暗になるまでお友達と遊ぶ毎日です。男の子なので、思春期にでもなれば、私とは口もきかなくなるかもしれません。

 

 子供がこのように、やがて来るであろう本格的な自立に向けて着実に変化を遂げつつあるのだから、私自身も内面で子離れをしていかなければ、釣り合いが取れません。

 最初にこのことを受け入れなければいけないことに気づいた時は、やはり寂しさを感じました。子供が少しずつ親を離れていく話は、先輩ママ達からたくさん聞いてきたにもかかわらず、いざ自分のこととなると、何となく認めたくないような気持になっていたのでした。

 

 とはいえ、いくら本音では認めたくないからといって、いつまでも小さな子供のままであるような錯覚を覚えたまま接していたいわけでもないのです。そんなことをすれば、お互いにとって害になります。親のエゴで子供に接してはいけないし、したくありません。その弊害はこれまでたくさんみてきました。

 ということは、私が認めるしかないのです。今後、子供が自分からどんどん離れていくことになるという事実を、まずはちゃんと受け入れなければいけないのです。

 

 頭ではこのことを理解してはいましたが、心の底からそれを実行するには、ある程度の時間と、”儀式”が必要でした。

 

 家の2階のクローゼットの中に、子供達が幼稚園で使っていた、カバンやら制服やらをずっとしまっていました。私は今回、これらを一気に処分することにしました。

 少し前までは、こうした昔の思い出が詰まった品々に手を付けることができませんでした。眺めていると、あの頃の無邪気だった子供達の姿が浮かんでくるからです。けれど私の中で、何かが変わっていました。心のケリが付いたのです。過去への執着を捨てて、次へ進む。そのように気持ちが切り替わってきたのです。

 

 細々したものも含め、もう使うことはない、子供達の小さい頃のグッズを一気に捨てました。さよならありがとう、と言いながら次々にゴミ袋に入れていきました。過去は過去。物は関係ない。今とこれからのためにスペースを作る。優先させたいのはこっちです。

 

 断捨離がひと段落して、家の中がスッキリと片付いた時、心の中で、ぽっかりと大きな空間ができたような感覚になりました。それまでごちゃごちゃと詰まっていたものが、一気に噴き出してなくなったような感じです。それは意外にも、寂しいとか悲しいとかいう負の感覚ではありませんでした。キレイに空いた分、これからこの中に何かが入ってくる、という、ワクワクするような嬉しさを含んだものでした。

 子育ての区切りを迎えているんだな、と思いました。まだ自分1人では生きていけないけれど、親にべったりでもいたくない。そんな時期を子供が迎え、それに対応して親としても接し方や心構えを変えていかなければいけない。寂しい面もあるかもしれないけれど、同時に親自身が新しい生き方をスタートする時期でもあります。これまで全面的に子供にベクトルを向けて過ごしてきた生き方から、少しベクトルの方向性を変えていく。時間や心のゆとりが生まれた分、何か別のことに注力することができます。

 

 求められていることや自分の役割は、少しずつ形を変え、いつまでも同じであるということはありません。その変化を正面から受け止め、自分の役割を理解し、その時にするべき仕事をただやっていけばいいのだなと思います。あらゆる物事は変化していきます。宇宙の真理なのでこれは絶対です。変化に対して柔軟でいることは、相手にとってだけでなく、自分の人生をスムーズに乗りこなしていくためにも、大きな助けとなってくれることだと感じます。

 

 

断捨離と心の問題

 最近、家の中の大がかりな断捨離を決行しました。ずっと気にかかっていたにもかかわらず、時間がないとか何とか自分の中で言い訳をつくって、先延ばしにしていたことです。片づけはそんなに苦手というわけではないですし、家が汚いということでもないのですが、普段使わない奥の部屋は物置のようになっていましたし、クローゼットや押し入れの中に、数年間手つかずのものがいろいろと入っているのが気になっていました。

 

 数か月前くらいから、「一日一個、何かを捨てる」という行動を自分に課し、それを実行してきました。一気に片づけることが難しいとしても、一日一個、必要のないものを捨てるくらいなら、気軽にできると思ったのです。一日一個とはいえ、それを毎日続けていれば、一年間で365個もの不要なものを処分することができます。

 そう思って、毎日コツコツと物を捨て続けていました。少しずつ、引き出しや戸棚のスペースが空いていくようになっていきました。やっていくうちに、必要のないものを捨てると、その分だけ心がスッキリすることに気づきました。そのうち、一日一個といわず、一日数個から時には数十個くらいのものを捨てる日が出てきました。

 

 そんなある日、テレビの番組表を見ていたら、断捨離を決行した家族のことを追ったドキュメンタリー番組が目に留まりました。なんとなく今の自分にぴったりのような気がして、録画して見てみました。

 断捨離エキスパートの力を借りながら、思い切って断捨離を決行した何組かの家族の姿を、1人1人の心のひだまで丁寧に映し出す、とても良い番組でした。それを見て、断捨離とは、ただ物を捨てるという物理的な作業ではなく、その人の心の中で、何かとけりをつける作業でもあるのだなと思いました。幼い頃の子供との思い出が詰まった本、おばあちゃんから譲り受けた嫁入り布団、家の中で自分の存在を主張する代わりに買い続けた小物たち・・他人から見れば大した価値がないような物でも、そして実際使うことはなくても、その人の心の中では、とても大きな意味を持つ品々。

 それらを捨てるという行為は、自分の中で、それらの物を介して視覚化してきた、自分の中の”思い”と決別するということです。捨てられずにいる物たちは、自分の中でまだ手放すことができずにいる、思い入れや古い観念を表しているのです。

 

 断捨離を決行しようという気持ちはあっても、いざ作業を始めると、どの方もある時点で必ず何らかの葛藤に苦しみ、迷い悩む姿が映し出されていました。今まで、物を捨てて家をスッキリさせねばと思っていてもできなかったということは、心の中でそれを決断する勇気が持てなかったということです。その決断を実行する前に、必ず葛藤の時期がどの方にも訪れるのでした。

 そこは断捨離のエキスパートの先生、慣れたものです。1人1人の心と向き合いながら、時にはズバリと厳しく現実の状況を指摘し、順を追って断捨離の作業を促していきます。一度その人の中で何かが外れ、心が定まると、断捨離は一気に進みます。この辺りは、私が日ごろから感じている、心のお荷物の外れ方と同じだなと思いました。

 

 とにかく、一度にやろうとしないこと。少しずつ、「今日はここだけ」といったように場所を決め、着々とやっていく。空間を上手く使う。戸棚やクローゼットといった、物をしまう場所は7割だけ使う。服や食器は、「着られるか着られないか」「使うか使わないか」ではなく、「着たいか着たくないか」「使いたいか使いたくないか」で取捨選択する。いろいろなポイントも教わりました。

 その中で、私の心にスコーンとヒットしたのが、「捨てるのではなくて、リサイクルではだめなのですか」と質問した人に対しての先生の答えでした。断捨離の先生は、

 

「もちろん、リサイクルも良いと思います。ただ、今は、リサイクルよりも、とにかく必要のないものを捨てて、心のゆとりをつくることの方が大事です。そういう状態になってから、リサイクルをすればいいんです」

 

 この言葉で私も目が覚めました。私はこれまで、”必要のないものはできるだけリサイクルに出すべき”という観念に縛られていたのでした。そのため、家の中のものを断捨離するとしても、リサイクルに出せるものをきちんと分別しなければいけない、1つ1つ分別するには手間も時間もかかる、そのため取り掛かるのに二の足を踏んでしまう・・といった構図になっていたのです。

 リサイクルに縛られなくても良いのであれば、次々にゴミ袋に放り込んでいけばいいだけですから、作業がスイスイ進みます。番組に出ていた断捨離家族の決心にも後押しされて、私は家の断捨離を思い切って進めようという気持ちになっていきました。

 

 まずは、一番気になっていた食器棚から始めました。この中には、結婚する時に母から譲り受けた数々の食器たちが眠っています。文字通り、使われることもなく眠っている食器がたくさんあったのです。私は、せっかく母からもらったものだから、捨ててはいけない、申し訳ない、という思いがどこかにあったのでした。

 けれど、母がくれた食器の多くは、母自身も使わないから私にくれたものです。誰かからの頂き物だったり、何かの景品でもらったものだったり、古くてもう使わないものだったり。母にとってあまり魅力がないものは、私の心にもやはり響かないのです。結果、使うこともなく棚の中で眠り続けてきたのでした。

 それらの食器と思い切って決別することにしました。リサイクルのことは取りあえず置いといて、次々といらない食器をゴミの袋に入れていきました。一度心が決まったら、作業は驚くほどスムーズに進行しました。

 大量に出たゴミの袋を、一度近くのクリーンセンターに運ぶことにしました。夫に車を運転してもらって運んだゴミの量(第一陣)は約120キログラム。燃えないゴミの集積場に、食器の袋を投げ込んだ時に聞こえてきた、「ガッシャーーーン」という食器類の割れる豪快な音を聞いた時、私の中で完全に何かが吹っ切れたのでした。

 

 その日から、今日は二階のクローゼット、今日は和室の押し入れ、今日は本棚、といった感じで、着々と断捨離を進めていきました。何かに後押しされているかのように、エネルギーが湧いてきました。一心不乱に物を捨て続ける妻の姿を見て、それまで受け身の姿勢だった夫も、いそいそと自分の不用品を捨て始めました。娘も何か影響を受けたのか、自分の部屋の片づけをしていました。

  物置のようになっていた和室は、お茶でも淹れたくなるようなスペースに変身しました。食器棚が片付いたことでキッチン全体の掃除もしたくなってきました。台所が綺麗になると、料理をするのがより楽しくなってきました。もう読まない本を処分したことで、かえって読書に対するモチベーションが今まで以上にアップしました。衣装棚を整理したことで、ファッションをより楽しめるようになりました。

 

 そして何より、私自身の心が整うようになりました。今までどこかで引っかかっていたものが取れたおかげで、気持ちがスッキリし、思考までがクリアーになって、日常生活の1つ1つを、丁寧に行えるようになったのです。

  ”捨てられない”は心の問題、と言いますが、身をもってそのことを実感した断捨離体験でした。